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太っているのは悪いことか?chapter2:低体重の危険性 2

このように、スリムであることは賞賛されるかもしれないがその裏側にはこのように体にダメージを与え、ときにそれは不可逆的である暗い面があることを忘れてはならない。
テレビや雑誌などに登場する、魅力的とされる女性たちはほとんどが驚くほど痩せている。例えば、韓国のガールズグループ少女時代はスタイルの良さで韓国、日本、そして他のアジアの国々に絶大な人気を誇るが、ティファニーさんを除くメンバー全員がwhoが定義する低体重だという。彼らが実際過度の食事制限や過度の運動やその他の減量手段によってその数値になったのか、あるいは元来痩せている「痩せの大食い」(私の父親の家系がこれで彼は中年になってもお腹が出ないばかりか誰より食べるーー大学生の息子より食べるーーにもかかわらずたまに会うと心配になるほど痩せている) なのかはわからない。私はそういうひとびとがいることを否定しないし、少女時代のメンバーの代謝がいかほどかというデータもないので彼女らが元来痩せている体質であることを否定することはできない。しかし、仮に彼女らが適切な食事量を摂取していたとしても彼女らをアイドルとして売り込むことには問題がある。

彼女らには男性だけでなく女性ファンも多くついている。それは、彼女らが社会における女性の理想形を体現しているからだ。細く、顔かたちが整っており、色白で、従属的で初心。これが(男性が支配する)社会が女性に求める最低限のものだ。これを女性ファンは内面化(ある価値観を受け入れ自分のものとすること)する。細くあらねばならないという圧力が特に女性に強く働くのは、この男性優位社会における女性の評価基準が容姿であるからだ。
私たちは何においてもまず第一に見た目によって、性差別的な男性及び彼らの価値観を内面化した女性たちーーつまり社会の成員のほとんどーーからジャッジされる。私たちがどのくらい思慮深いか、脳みそが詰まっているか、経験豊富であるか、キャリアがあるか、努力家であるか、思いやりに満ちているか、そんなことは問題ではない。美しくなければ脳みその中身など意味がない。また、美しく脳みそがあっても自己主張するような女はダメだ。
私たちに求められる理想像はいわば人形と使用人のあいのこのようなものだ。男性に異議申し立てをせず、美しく、若い従属的な女ーーアイドルというのはそれを体現した存在だ。
同じアイドルでも男性アイドルのほうに男性のファンはほとんどいない。それは社会の支配階級である男性はおおむね性的主体であり(主体: 自分の意思で行為を行うもの客体: 行為の対象物ーー女性を性的客体化するということは、性行為は二人で行うものではなく、男性ひとりによって行なわれることも示している。その過程で、女性は目的(快楽を得ること)を遂行するための「物」として扱われる) 異性の目の保養になる必要がないからだ。(ゲイやトランスジェンダーの場合男性が客体となりうる) 彼らは一個の意思ある人間として認められているから、外見よりもむしろ何を成し遂げたかによって社会から評価される。しかし私たちは皮膚から上の部分によってのみ評価され、従属的でなければ罰される。
このような社会的背景のもとで激細アイドルが紹介され、それが”美”と定義されたとき、抑圧された女性たちの一部は彼女らを目指すようになる。そして、低い自己評価、摂食障害、その他精神疾患に落ち込んでゆく。

実際少女時代のみなさんは痛々しい。特にユナさんなどはガリガリに痩せて倒れないか心配になるほどだ。あそこまで痩せていると頭のほうもはっきりしないだろうし生理も恐らくないだろう。将来的に骨粗鬆症になるであろうことは言わずもがなだ。ある写真で見ると、彼女の肋骨はくっきり浮いて手の指は骨ばっていた。
彼女はダンサーでありシンガーであり俳優でありタレントだ。スケジュールはぎちぎちで睡眠も十分に取れていないだろう。(韓国のアイドル会社は一般に社員に不利な契約で彼らを酷使することで有名) そういう過酷な状況でこそしっかり栄養をとらなくてはならないのに彼女にはそれが許されない。どんなに名声と羨望を得ようと満足な食事をとれない彼女をかわいそうに思う。

男性優位社会が女性に投げかけるメッセージは残酷だ。
美しくあれ、若くあれ、従属的であれ、セクシーであれ、しかし奔放すぎるな、性的主権を放棄しろ、性的客体であれ、細くあれ、いや適度な肉付きであれ、豊満なバストを持て、色白であれ、いや健康的な小麦色のほうがいい、努力せよ、でも男より知的であってはいけない、出しゃばるな、いい母親、いい妻、いい娘であれ、性犯罪被害くらい我慢しろ、浮気されても我慢しろ(でも浮気することは許さない)、家庭内暴力は内密に、etc…
そのメッセージの中でも、細くあれという圧力は特に有害でありときに生命に危険を及ぼしうる。若い世代の女性たちのロールモデルとなる存在が栄養失調であってはいけない。それをアイドル産業やメディア関係者がいつか理解する日はくるのだろうか・・・?

怒りを「使う」ということ――アドラー心理学的負の感情の位置づけ

はじめに:私はアドラー心理学の専門家ではないし、何の資格もありません。ただ、アドラー心理学による子育てを受け、多少それに関する本を読んだただの素人です。これから書くことは参考程度にしてください

 

アルフレッド・アドラーは今から一世紀ほど前、フロイトやユングと同時期に存在した心理学者だ。岸見一朗さん著の「嫌われる勇気」という書籍を読んだ人なら多少聞きおぼえがあるかもしれないが、ほとんどの人はその存在を知らないだろう。フロイト派が文化によく根差したのに対しアドラーの開発した個人心理学が根付かなかった理由のひとつに、アドラーが残した文献の少なさをあげる人もいる。

古代ギリシアの哲学者たちのように、アドラーは書物を残すことによってではなく、人や弟子たちとの直接のやり取りを通してそのノウハウを広めることを好んだ。その結果、今に残るアドラーが書いた本はあまり多くない。

アドラーの個人心理学とフロイト派の決定的な違いは、精神病のとらえ方にある。例えばあるひとが対人恐怖症であるとする。人前に出ると緊張して過呼吸がおきて息ができなくなるという症状を訴える。フロイト派のカウンセラーはこう言うだろう。「前に何か人前に出る事でトラウマティックな経験をしたからそうなるのです。笑われたりとか、辱められたりとか、辛かったのでしょう。原因はそこです」これに対してアドラー博士は、トラウマを一笑に付す。「あなたは人前に出てひとに批評されることが嫌なのです。ひとにバカにされると負けたように感じます。あなたは常に勝ちたい。批評されたくない。耳当たりの良い言葉だけを聞いて人と対峙したくない。だから対人恐怖を”使って”嫌な状況に陥るのを避けているのです。又はやりたくないことをやらなくて済むようにしているのです」

フロイトは患者の症状の原因を過去に求め、アドラーは現在に求める。フロイトは原因論、アドラーは目的論。これが二者の決定的な違いだ。一見アドラーはとてつもなく冷たい人間に見える。個人心理学は人を悪意をもった存在だと感じさせるところがある。しかし現在の症状を過去に求めないことは、治療の上で理にかなっている。なぜなら過去は絶対に変える事ができないからだ。

あなたの病気の原因が何年前のこの出来事にあります、とか、親に虐待されたから今鬱になっているのです、とか言われたところで、過去は変えられない。確かに、大変な経験をすれば精神疾患にかかりやすくなるのは道理だ。lgbtのユースの自殺のリスクがヘテロセクシャルの同年代に比べて高いことや、崩壊した家庭で育った子供がアルコールに手を出しやすくなることは事実でありデータとしてある。しかし同じ経験をして、それを一生引きずる人と、一年で忘れてしまう人がいることを鑑みると、原因論ではこれを説明できない。原因論によれば、たとえば虐待された子供は非行にはしり、アルコールに溺れ、ドラッグに手を出すという同じルートを辿るはずだ。しかし現実にはそうではない。アドラーは百年も前の、オーストリアの医者だから、もちろん現代の日本に住む私たちに当てはまらないことも多々あるだろう。しかし、アドラーの目的論は非常に慧眼であったと思う。

精神疾患に限らず負の感情(主に怒り)も、目的のために行使される。例えば、怒りというのは”衝動”の産物、抑えられないものではない。性犯罪が”本能”の産物ではなく、支配欲求に基づく暴力であるように、怒りも場面や相手によって使い分けられる。例えば、部下に怒りをぶちまける上司が、そのまた上司に向かって”我慢できずに”負の感情を爆発させることはほとんどない。子供に当たり散らしていた母親は、電話口に出た途端丁寧な口調になり、電話が切れるなりまた怒りだす。

つまり人は理性を失って爆発するのではなく、理性に基づいて”いつ””どこで””誰に”怒り、相手を打ち負かして優越感に浸るかを考えてから怒りを行使している。相手を完全に屈従させ、コントロールし、打ち負かし、敗北感を味わわせるために負の感情を使う。そして、このような怒りの爆発の裏には、往往にして強い劣等感や、劣等コンプレックスがある。自分を強く信じているひとは、自分を大きく見せる必要がないが、劣等感があるひとはいつも虚勢をはる。虚勢をはり、自分は強いのだということを証明し、相手を打ち負かし、従えようとする。怒りというのはその過程において行使されることがよくある。

私自身も、相当な我儘で、ちやほやされて育ったので、かなりイラつきやすいほうなのだが、こういった原理をふまえておくと、イラッとしたとき、ああ自分はすべてをコントロールしたいのだな、と自分を省みることができ、冷静になれる。そもそもコントロールできることなどほとんど世の中にはないのだから、自分の思い通りになるように、と思う方がバカなのだが、癖でついつい出てしまったりする。

”怒り”の定義も人それぞれで、”愛があるからこそ怒るんだ”というひともいるかもしれないが、言葉というものがあるのだから、わざわざ負の感情を付け足さなくても言い聞かせれば十分伝わる。それに、怒りというのは一種の快感なので、自己中心的に使ってひとに当たり散らしてしまったりする。私は、”怒り”を使わない親に育てられたので、世間一般的な叱責に最初は戸惑った。叱責の目的はもちろん、相手を教育するためであったり、仕事の納期を守らせることであったりするはずだが、それが効果を出しているだろうか?私にはそうは見えない。逆に相手を委縮させ、2人の関係を悪化させてしまうだけにみえる。それでも怒ることをやめないのは、本人に相手に仕事のやり方を教える気がなく、相手を屈従させて優越感に浸りたいからだ。まあこういうことを面と向かって言うと火に油を注ぐ結果になるのだが……。