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路上での(主に男性から女性への)嫌がらせ、舌うち、過剰な接近、脅しかけについてとその他もろもろ

今年から大学に入ったので忙しくてすっかりブログを放置してしまっていた。楽しみにしてくださっていた方(いるかどうか分からないけども)ごめんなさい。今回は長らく悩ませられてきた公共空間での男性からの嫌がらせ行為について書きたいと思う。

物心ついたときから、男性と空間を共にすることは不愉快でプレッシャーのかかる経験だった。電車、病院、路上、店などの公共空間で、私は常に男性から嫌がらせに遭ってきたし、今もそうだ。まっとうで品がある男性には非常に申し訳ないが、”男性から”と言うのには理由がある。それは、男性からしか嫌がらせを受けないからだ。日々付きまとわれ悩まされるそれは、必ずしも性的なものではない。性に根ざして嫌がらせが行われていることは明白だが(男性が男性に、私にするような嫌がらせをしているのを見たことがない。”嫌がらせ”とは、例えば舌打ちとか、凝視とか、あからさまな貧乏ゆすりとか、意図的な過度な接近とか、唸り声を上げたりだとかである)、首都圏に住まない私は電車内で不本意に触られるという性的攻撃を受けることはないし、飲み会とかサークルとかに参加しないインディペンデントな生活を送っているので、あからさまな性的攻撃とかにあうことは、今のところは少ない。せいぜい夏期に胸元を凝視されるくらいだし、そういう不愉快な視線を視界から外せばよいだけだ。

多くの男性は、自分が私を凝視しているのに、見返されると腹を立てる。自分は視る者であり、若い女は視られる者、自分は支配者であり、相手はそれに従属するもの、とでも思っているかのようだ。何度も繰り返すが全ての男性がそうではないし、人間性の成熟という点において、性別は関係ないことも分かっているし、私はマンヘイターでもない。しかし、マンヘイター(男嫌いの意)になりたい要素は日常にてんこもりだ。

さまざまな経験、筋肉の病気などを通して私は以前よりも図太くなり、男が怖いとはもう思わないが(何せ彼らが私に与えられる苦痛以上の苦痛を十年以上毎日毎日経験させられてきたのだから)ただ不愉快だし、公共空間、特に電車などに乗るのはおっくうである。以前カナダを旅したことがあったが、そこから帰国して一番初めに目に付いたのは、日本の男性の品の無さだった。遠慮の欠片もなくくしゃみはする、道も席も譲らない、女などが邪魔な位置にいようものなら舌打ちして睨みつける、女性店員に説教をする、などなど、数え上げればきりがない。基本的に公共空間で男性の思いやりを見たことがない。そうじゃない人もいるだろうが、多くが女性を踏みつけ、搾取し、うっぷんの捌け口にしようとする。フェミニズムにおいて女性は”セカンドシティズン――二級市民”などと称されたりするけれども、私の感覚では女性は、この国において、私の住む地域において、二流市民ですらない。家畜、ゴミ箱、虐待のためのターゲット。いや、少なくとも家畜は虐待されたり嫌がらせをされたりもしないから、家畜未満だ。

私は、女性は相当にこれで悩んでいると思う。比較的リベラルで女性問題に関してはまともな父親をもち、経済的に恵まれ、筋痛症というハードな経験を通して図太くなった(私は筋痛症を、その激烈な痛みともろもろの葛藤、人間関係の崩壊、周囲の無理解による苦悩の存在にも関わらず、最近天からの恩恵であったと考えるようになった。痛みを患う前の自分はあまりにも弱く、傲慢で、女性差別的で、自信がなく、男性から女性への虐待を正当化していたからだ。もし筋痛症がなければ、私は人を傷つけ、日々の男性からの嫌がらせの中で疲弊しきって生きていくことができなかっただろう)私でさえ、公共空間に長く晒され、嫌がらせを受けた後は深い鬱状態に落ち込む。まともな人もいる。でも、この国の差別的構造はあまりに根深く、過酷で一人で受け止めるには大きすぎる。

一つ確かなことは、そのような攻撃を行う者や、女性に対して暴力を行使する者は、相手の身体は壊せても魂は絶対に壊せず、その報いを確実に受けるということだ。弱い者に対しての暴力が野放図にされている環境で自分を保つのは難しいことだ。聖書から引用をとると”滅びに至る門は広く、正しき場所への道は狭い”だ。聖書を全て信じるわけではないが、いい引用が結構あるのでたまに読んでいる。もっといえば、精神的につらい時に救いになることもある。

とにかく私はこの過酷な環境から抜け出したい。ツイッターのハッシュタグ「日本を脱出したい女子会」などからもみうけられるように、海外脱出を望む女性は少なくない。そしてそれは女性に限定しないかもしれない。あまりにも急激に経済的に発展し過ぎたこの国のひずみに苦しませられる人々は少なくない。ダメになったら別のことを試してみればいい。トライしてトライしてトライすることが、成功への鍵だ。私は未知の病気をつきとめるために他の人が一生で訪れる位の回数医者を訪ねた。そして原因を見つけることに成功した。だからもうきつくてきつくてダメそうな方に、トライを重ねればきっと道は開けると伝えたい。”求めよ、さすれば与えられん。門を叩け、さすれば開かれる”だ。未来への扉を連打し続ければ、私たちはいつかきっと幸せになれると思う。

 

見ることが許される性、許されない性、そして疾患を考える

考えがまとまり切らないし、あまり他でそういう研究やデータを聞いたことがないので書き散らしになっちゃうかもだけど、これまでの経験や観察から帰納的に性差別と慢性疾患(特に斜頸)について考えついたことを述べてみる。
この社会において、前提として、”頭が高い”という言葉でもわかるように、一般に目下のものが目上のものをまじまじと見るのは失礼とされている。また、他人をしっかり見ることも失礼とされているので、例えば電車など人が密集する空間においては、人は互いに目が合わないように気をつけている。これは男女ともいえることだが、街を歩いていれば、男性が比較的胸を張って周囲を見渡しながらまた睥睨しながら歩いているのに対し女性はうつむきがちに歩いているのが分かるだろう。これは電車などでもそうで、一般に男性は女性を見つめることを許され、女性は男性を見ることを許されていない。男性同士がどうなっているのかは知らないが、女性同士は私の経験からいくと目線があっても威嚇されたりすることはない。つまり女性が女性を見ることはこの社会においては問題にされない。なぜ私が、女性から男性への視線が社会規範を逸脱したものと考えるかは、もし私が男性の目を直視すれば、唸られたり、舌打ちされたり、攻撃的なボディランゲージで接近されたりといった威嚇をこれまでに数え切れないほどされてきたからである。私はこれについて語る女性にあったことがないが、少なくともこういう経験によって、私は電車、路上、ショッピングモール、海水浴場といった自宅とトイレ以外の全ての公共の場において常に男性を見ないように、注意を引かないようにする努力を強いられてきた。暴力を示唆するような威嚇をされたら誰だってこわいしそれを避ける努力をするようになるものである。
男性は常に女性を観察してよい。しかし逆は許されない。この社会に生きてきて、思春期に入ってほとんど最初に知ったことがこれである。これは大変息苦しく不自由な慣習で、せっかく外に出ても視線をいちいち気にしなければならないので楽しみも半減するというものだ。ビルのイルミネーションを楽しもうにも視線の先に男性がいたらできない。どのくらいの女性がこれを感じているかは知らないが、みんなうつむきがちに歩いているんだからこの慣習はわかっているのだろう。
言うまでもなくこういった慣習は有害だ。女性の自尊心を削るといういみでも有害だし、病気、特に斜頸の観点から見てもそうだ。
ググればたくさん写真が出てくるが斜頸というのは単に首が曲がる病気ではなく横に向く病気である。左の首が悪ければ顔は右を向く。酷いと90度近く廻って固定される。こういう首を持った私に降りかかるのは、悪態と脅しの嵐だ。女性からはされたことがないが反対の性からはよく受けた。だから私は必死に首を矯正した。いつも踏ん張って曲がらないように注意した。いつしかそれは習い性になって、自分の首がおかしいことに自分でも気づかなくなった。患部に痛みがなかったから長い間先天性疾患だとも気づかなかった。そうして私は筋筋膜性疼痛を発症した。終わることなく首の奥が痛み続け、その痛みは頭にも波及した。ただの痛みではない。光や音でさえ悪化し、何年もベッドから出られないようなすさまじい痛み。痛くて眠ることも風呂に入ることも外出することもできなかった。筋筋膜性疼痛症候群というのは一般にトリガーポイントブロックという注射で治療可能なはずである。それをしに上京もした。にも関わらず一向に回復しなかった。したとしても一時的なもので、日常生活ができるようにはならなかった。なぜかというと、第一にトリガーポイントの場所が脳幹の近くすぎて正しい位置に注射ができなかった。そして斜頸のせいで常に筋肉が圧迫されつづけトリガーポイントを形成し続けたからだ。斜頸を無理に矯正しているときだけ筋筋膜性疼痛が出ることに気づいたのはごく最近だ。つまり傍目から見たらまっすぐには見えても実際にはねじれていて、とてもストレートな状態ではなく、そのひずみがトリガーポイントとなって、私を夜も昼も10年以上にわたって苦しめ続けたわけだ。私の比較的がっちりした体型もあったのかもしれないが、斜頸を疑って病院に行っても、その”矯正”のせいで何度も何度も誤診されて苦しんだ。斜頸だという診断が降りず苦しんだ。ほとんど無意識下で、首まっすぐにしなければいけないという思い込みが強くあって、それを取り除くまでに非常に時間がかかった。力を抜いてみれば、私の首はほぼ真横を向き、倒れている。誰が見ても一発で変だと思う。私は四六時中力を入れていなければならない生活と疼痛から解放されて、見た目はひどいかもしれないが、とても安堵した。同時に、ここまで私の首を抑圧してきたものの要因のひとつに、”視線の社会規範”つまり”女性が男性を見ることは許されない”といったものがあることに気づいた。男性の人口が全人口の10%程度ならさほど気にせず素直に首が曲げられただろうが、人口の半分は男性だし、道を歩いているのは男性のほうが働きに出ていたりで多い。彼らの視線を避けるためには真下を見ているしかない。まっすぐに前を見ることはおろか、横を見たら確実に何か言われる。だから私は無理をしてでも首を”矯正”していた。そしてそれが結果として慢性疼痛疾患を引き起こした。
斜頸は珍しい病気だし大抵は幼児期に解決する。だから私みたいな経験をもつ女性はほとんどいないと思う。けれども、もし私の経験がだれかの助けに少しでもなればいいなと思う。

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