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診断が困難な斜頚の展望

筋性斜頚というのは生まれつき首の片方の筋肉が繊維・腫瘤化し、患部側に首を傾げ、患部と反対側を向いている状態が恒常化する疾患である。斜頚には大きく分けて先天性と後天性があり、また筋肉が固く線維化する筋性斜頚は、筋肉の硬直を伴わないpostural torticollis,眼性斜頚、先天的な脊椎の変形、周辺組織の炎症、痙性斜頚といった後天性斜頚と区別されなければならない。(Outcome of Surgical Treatment of Congenital Muscular Torticollis–Jack,C.Y.Cheng, MBBS; and S.P.Tang,MD)

筋性斜頚では通常腫瘤が患部の胸鎖乳突筋に最初あらわれ、成長と共に消えていくが、この腫瘤がない場合もあり、その場合と、筋肉の拘縮を認めないpostural torticollisの患者の方が予後がよく、特にpostural torticollisでは手術を必要とするケースはほとんどないというがある。

原因に関してははっきりしていないが、Dr.C.Y.Chengによれば、難産、局所貧血、静脈の閉塞、胎位の異変、体格や成長の阻害、感染性筋炎、神経系の異常によるものなどが類推されるそう。海外では筋性斜頚の診断がおりた時点で(多くは新生児)理学療法を開始するのが通例だが、日本では放置することになっている。理学療法をしても改善がみられなかった場合は、およそ1-4歳で患部を切断し、筋肉の一部を摘出する手術を行う。

手術は通常電気メスを用いて鎖骨の上2センチ程度の高さで、胸鎖乳突筋の胸骨側の足と、鎖骨側の足を完全に切断し、必要があれば1-2センチ程度筋肉を摘出する。(胸鎖乳突筋は耳の後ろの乳様突起からスタートし、二股に分かれて鎖骨と胸骨で終結する筋肉である。首の中で最も体積の大きい筋肉であり、首の廻旋運動と平衡感覚を主につかさどっている)もしもこの処置で十分でない場合、例えば斜頚の程度がひどかったり、手術時の年齢がいっていたりした場合、上記の処置をした後に乳様突起付着部も切断する。Chengによればかなりひどかったケースにおいて筋肉の全摘出を必要としたらしい。

一般的に予後は、手術時の年齢が上がるほどよくない。手術の適齢期は1-4歳という見解が多い。12歳を過ぎると斜頚に伴う顔や頭の変形は元に戻らなくなるという研究がある。しかし多くの研究で年齢がいっていたとしても手術は十分に効果的であるとの結論が出ている。顔面の変形は戻らなくても、拘縮による筋肉の慢性痛や見た目の改善に繋がるということだ。手術後はコルセットの着用を1-2ヶ月、活発な理学療法を続けることが筋肉の再癒着を防ぐのに効果的だと多くの研究者はいう。

なぜこういう専門的なことをつらつら書いているかというと、筋性斜頚をきちんと診断できる医師が一向にいないからだ。斜頚は年齢に伴い悪化する場合があるという指摘もあるからそういうケースだったのかもしれないがまずあきらかに首が変な写真があったのに一歳児検診で発見されなかったのがおかしい。親が気付いていたのに病院に連れていかなかったのもおかしい。

小学生のころは無理くりまっすぐにしていて、傍から見て気付かないくらいだったが、成長と共に体が重くなって、中学生頃から慢性的に首と肩と背中が痛み、更に項靭帯にMPSを発症し、そのころから起きていることが辛くなった。学校は休みがちで、高校も後半はほとんど行けずにずっと寝ていた。斜頚で寝たきりになることはないが、斜頚が原因のMPSがかなり酷く、人の話し声さえ痛みに直結するような日々が何年も続いた。MPSを治療する東京のペインクリニックで、MPSの原因は斜頚だとはっきり言われたが、そもそも筋肉が原因で痛むという概念が医学界に浸透していないため、整形外科でその痛みを斜頚が引き起こしているので、程度がそんなに酷くなくても治療してほしいといっても首を傾げられて終わった。地元の病院という病院を周り、東京にさえ行ったがほとんどの医者の診断は神経系の異常により斜頚がおこる痙性斜頚で治療法はボツリヌストキシンの注射しかないとのことだった。痙性斜頚は痛みが伴ったり、その日によって硬直具合が違ったりといった特徴がありそのどれにも自分は合致しなかったが、一応ボツリヌスを受けてみた。そして悪化した。嚥下障害を併発して二週間で3キロ体重が落ちた。首の筋肉が悪いと嚥下障害になるというのは東洋医学的見方だが私にはまさにそれがあてはまることをその注射によって再確認した。

というのも、注射は筋肉を柔らかくする成分が入っていて、注射後大体2週間あたりから効いてきて大体3カ月で効果が切れるというものなので、筋肉を弛緩させ、喉元のコントロールがきかなくなった。これは本当の痙性斜頚の人にも現れうる副作用だが、考えてみれば私は、それが当たり前と思って育ってきたから疑問に思わなかったが、生まれてこの方ずっとものが飲み込みにくく、特に液体と固い物が苦手で、飲み込むたびに空気を一緒に嚥下してしまうことが多かった。多いというより何かを呑みこむときは必ず一緒に空気を呑む。意志の力でどうこうできるものではない。唾を飲むときでさえ空気が入るので胃腸は常に膨満していてガスが上からも下からも出放題で、というか出さないとお腹が苦しくなり、それで公共の場ではいつも苦労する。また胃の膨満により、例えば加活動だった日(つまり通学した日だが)、ストレスフルなイベントの後はご飯を受け付けなくなる。それが顕著だったのが筋筋膜性疼痛症候群の治療で東京にしばらく遠征したときで、土地勘がない場所を延々と歩くので非常にお腹が空いて、というかほとんど飢餓状態で何か食べたいのだが胃にガスがたまっていて食べられずにあばらが浮いた。ガスのたまった胃の厄介なところは、体は栄養を欲しているのに胃が膨らんでいるため、ある時点までは空腹感が全くないというところで、空腹感が出たときには時すでに遅し、ほとんど餓えている状態。家から出ずに済むときはいいが、活動するときには、だから細心の注意が必要だ。飲み物は特に多く空気を呑みこんでしまうものなのであまり多く飲めないから、常にカロリックなものを呑むようにして、食べ物もなるべくカロリーがあるものを選ぶ。野菜は生野菜は避けて煮物を、ご飯ではなくパンを食べるようにすると結構いける。

半年前まで非常に酷かったMPSは、腕のいい鍼師の先生の治療とSNRIサインバルタの服用によりかなり改善し、おかげで斜頚の病院巡りや嚥下障害についての考察がはかどった。

人は生まれ持ったものに疑問を抱かないものだ。特に親が疑問をもたなければなおさら。生まれた時に授かった病気、それに伴うもろもろの症状に成人するまで気付かないなんてことありえないだろうと思っていたがそれが自分だった。私の家庭は、「病気で母親に手間をかけること」がよしとされない場所だった。喘息で咳をすれば体調管理がなっていないとなじられた。そういうなかで一体だれがありのままでいられるだろう。斜頚だったら見たらすぐ分かるはずだ、みんなそう思う。私もそう思っていた。自分は首がまっすぐにできるんだからそうじゃない、いままで誰にも首が曲がっていると指摘されたことがないんだからそんなはずない。でも体はそんなに簡単じゃない。人間はそんなに単純にできてない。私は確かにまっすぐにすることはできた。今もできる。誰にも斜頚と気付かれずに歩くことができる。でもまっすぐに”できる”のと自然にまっすぐなのは決定的に違う。私は首を真っすぐにするためには努力と代償が必要だ。痛みという代償。それが健康な人と病人の違いだ。

自分が自分でいられない場所で育っていつも首をまっすぐにし続けた。夜は必ず右を向いて、左手を上げてねる生活。それが普通だと思っていた。そして痛みの嵐が直撃した。そしてかわいそうな子供は痛みの嵐さえも”普通のこと”皆経験していることだと思い込んだ。毎日が地獄になった。子供は短気になり、怒りっぽくなり、途中で物事を放り投げることが得意になり、そのことでなじられた。しかし誰が予測できただろう。その子供の体の内側にはいつもいつもトゲがあって、それが飽くことなく彼女を苛んでいるのだという事実。その子自身さえ知らなかった。「こんな痛みは大したことない」「みんなこれに耐えている」「あまりうるさく言うと親が嫌がるから言わないでおこう」「医者も多分この問題は解決できない。これはもっと深くて複雑な頭痛だ。ただの頭痛じゃない」

「つらい」

「悲しい」

「逃げ出したい」

「ここから逃げ出したい。どこか遠くへ行きたい。」

人生疲れた。終わらせたい。際限のない苦痛を終わらせたい。

その子供は私。

人生に疲れ切り、老婆のように体を引きずる子供はこの私。

人間関係に疲れて、体に疲れて、人生が真っ暗でどうしようもなかった。その時になぜ生き抜けたかというと食い意地がすごく張っていてこれを食べずには死ねない食べ物リストが膨大だったからだ。私は自分の食に対する欲深さが好きではないがそれ故に生き延びたのではないかと類推している。

どんなことも中途半端な子供を見ると自分を思い出す。その子に巣食っている闇を類推する。

 

私は病を天からの贈り物と考える。それは私を苦しめたが、私には苦しむに値する要素も、苦しみを乗り越える力もあった。

 

なぜ多くの医者が、特に筋性斜頚の名医と呼ばれる医者が誤診をするのかこれからつきとめていく。