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怒りを「使う」ということ――アドラー心理学的負の感情の位置づけ

はじめに:私はアドラー心理学の専門家ではないし、何の資格もありません。ただ、アドラー心理学による子育てを受け、多少それに関する本を読んだただの素人です。これから書くことは参考程度にしてください

 

アルフレッド・アドラーは今から一世紀ほど前、フロイトやユングと同時期に存在した心理学者だ。岸見一朗さん著の「嫌われる勇気」という書籍を読んだ人なら多少聞きおぼえがあるかもしれないが、ほとんどの人はその存在を知らないだろう。フロイト派が文化によく根差したのに対しアドラーの開発した個人心理学が根付かなかった理由のひとつに、アドラーが残した文献の少なさをあげる人もいる。

古代ギリシアの哲学者たちのように、アドラーは書物を残すことによってではなく、人や弟子たちとの直接のやり取りを通してそのノウハウを広めることを好んだ。その結果、今に残るアドラーが書いた本はあまり多くない。

アドラーの個人心理学とフロイト派の決定的な違いは、精神病のとらえ方にある。例えばあるひとが対人恐怖症であるとする。人前に出ると緊張して過呼吸がおきて息ができなくなるという症状を訴える。フロイト派のカウンセラーはこう言うだろう。「前に何か人前に出る事でトラウマティックな経験をしたからそうなるのです。笑われたりとか、辱められたりとか、辛かったのでしょう。原因はそこです」これに対してアドラー博士は、トラウマを一笑に付す。「あなたは人前に出てひとに批評されることが嫌なのです。ひとにバカにされると負けたように感じます。あなたは常に勝ちたい。批評されたくない。耳当たりの良い言葉だけを聞いて人と対峙したくない。だから対人恐怖を”使って”嫌な状況に陥るのを避けているのです。又はやりたくないことをやらなくて済むようにしているのです」

フロイトは患者の症状の原因を過去に求め、アドラーは現在に求める。フロイトは原因論、アドラーは目的論。これが二者の決定的な違いだ。一見アドラーはとてつもなく冷たい人間に見える。個人心理学は人を悪意をもった存在だと感じさせるところがある。しかし現在の症状を過去に求めないことは、治療の上で理にかなっている。なぜなら過去は絶対に変える事ができないからだ。

あなたの病気の原因が何年前のこの出来事にあります、とか、親に虐待されたから今鬱になっているのです、とか言われたところで、過去は変えられない。確かに、大変な経験をすれば精神疾患にかかりやすくなるのは道理だ。lgbtのユースの自殺のリスクがヘテロセクシャルの同年代に比べて高いことや、崩壊した家庭で育った子供がアルコールに手を出しやすくなることは事実でありデータとしてある。しかし同じ経験をして、それを一生引きずる人と、一年で忘れてしまう人がいることを鑑みると、原因論ではこれを説明できない。原因論によれば、たとえば虐待された子供は非行にはしり、アルコールに溺れ、ドラッグに手を出すという同じルートを辿るはずだ。しかし現実にはそうではない。アドラーは百年も前の、オーストリアの医者だから、もちろん現代の日本に住む私たちに当てはまらないことも多々あるだろう。しかし、アドラーの目的論は非常に慧眼であったと思う。

精神疾患に限らず負の感情(主に怒り)も、目的のために行使される。例えば、怒りというのは”衝動”の産物、抑えられないものではない。性犯罪が”本能”の産物ではなく、支配欲求に基づく暴力であるように、怒りも場面や相手によって使い分けられる。例えば、部下に怒りをぶちまける上司が、そのまた上司に向かって”我慢できずに”負の感情を爆発させることはほとんどない。子供に当たり散らしていた母親は、電話口に出た途端丁寧な口調になり、電話が切れるなりまた怒りだす。

つまり人は理性を失って爆発するのではなく、理性に基づいて”いつ””どこで””誰に”怒り、相手を打ち負かして優越感に浸るかを考えてから怒りを行使している。相手を完全に屈従させ、コントロールし、打ち負かし、敗北感を味わわせるために負の感情を使う。そして、このような怒りの爆発の裏には、往往にして強い劣等感や、劣等コンプレックスがある。自分を強く信じているひとは、自分を大きく見せる必要がないが、劣等感があるひとはいつも虚勢をはる。虚勢をはり、自分は強いのだということを証明し、相手を打ち負かし、従えようとする。怒りというのはその過程において行使されることがよくある。

私自身も、相当な我儘で、ちやほやされて育ったので、かなりイラつきやすいほうなのだが、こういった原理をふまえておくと、イラッとしたとき、ああ自分はすべてをコントロールしたいのだな、と自分を省みることができ、冷静になれる。そもそもコントロールできることなどほとんど世の中にはないのだから、自分の思い通りになるように、と思う方がバカなのだが、癖でついつい出てしまったりする。

”怒り”の定義も人それぞれで、”愛があるからこそ怒るんだ”というひともいるかもしれないが、言葉というものがあるのだから、わざわざ負の感情を付け足さなくても言い聞かせれば十分伝わる。それに、怒りというのは一種の快感なので、自己中心的に使ってひとに当たり散らしてしまったりする。私は、”怒り”を使わない親に育てられたので、世間一般的な叱責に最初は戸惑った。叱責の目的はもちろん、相手を教育するためであったり、仕事の納期を守らせることであったりするはずだが、それが効果を出しているだろうか?私にはそうは見えない。逆に相手を委縮させ、2人の関係を悪化させてしまうだけにみえる。それでも怒ることをやめないのは、本人に相手に仕事のやり方を教える気がなく、相手を屈従させて優越感に浸りたいからだ。まあこういうことを面と向かって言うと火に油を注ぐ結果になるのだが……。