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ミシガン大学の生徒の性的不正に対するポリシーから学ぶ性的行為への「同意」の定義

米国ミシガン大学のサイトに学生の不正な性行為を諌めるためのポリシーがあり、興味深かったので抜粋して翻訳する。ボディタッチ、セックスなどさまざまのレベルの性的接触を含む性行為に、合意が必要だという大前提がまずある。なぜかというと、それは自分の体を一時他人に明け渡すということであり、自分の領域に他人を入れるからだ。しかしながらこの「合意:consent」の定義は日本においては曖昧な印象があり(

お茶を濁すというか、白黒はっきりしないことを美徳とする民族性の影響もあるのかな?はっきりノ―ということが、性行為に限らず難しい文化ということも関係しているのかな?)、比較的定義付けをしっかりしているアメリカを見習うことは、性的に搾取されやすい女性や子供、しょうがい者、性的少数者のみならず、少ないが確実に存在する性犯罪の男性被害者(アメリカでは10%は男性といわれる。加害者の99%は男性であるというデータもある→University of California Santa Cruzの女性学の教授Bettina Aptheker氏の2009年に行われたレクチャー第十二回、Politics of Rape(レイプのポリティクス)において言及されている。PodcastでUC santa cruzを検索で聴けます)にとって、そして社会の構成員全体にとってよりよい共同体形成のための第一歩となる気がする。

露出の高い服を着て夜道をひとりで歩いていたら性犯罪を誘起しているのだろうか?違う。愛想を振りまく人はセックスを誘っていると推測していいのだろうか、違う。恋人同士なら、あるいは夫婦なら、相手の都合に構わずセックスを強要してよいのだろうか?違う。結婚は性行為の同意を前提とするのか?もちろん違う。誰だってしたくないときはあるし、疲れているときもあるし、ひとりになりたいときもある。それは相手を嫌っていることを意味しない。好意があれば何をしてもいいというものではない。すべての人間は自分の体をいつどこでどのように使うか、に対しての主権があり、それは夫や、恋人に帰属するものではない、とミシガン大の性犯罪防止センターは言っている。

 

At the heart of consent is the idea that every person has a right to personal sovereignty – not to be acted upon by someone else in a sexual manner unless they give clear permission to do so.  It is the responsibility of the person initiating the sexual activity to get this permission.  Absence of clear permission means you can’t touch someone, not that you can.

Sexual assault prevention and awareness center, consent and coercion, University of michigan student life

 

合意についての核となる考え方は「全ての人間は個人的主権をもっている」というものだ。つまり、明確な承認なしに他人に性的行為をされない権利である。性行為の行為者は相手からこの承認を得る義務がある。相手の、性行為に対する明確な承認の欠如(あいまいな態度)は、承認を意味せず、拒否と考えるべきである。

 

 

合意と脅迫の線引きを明確にすることで、ひとの主権を保護することが容易になる。同意というのは、服装や態度によって得られるものではなく、一度関係があったり付き合っていたり婚姻関係にあるという事実のみで得られるものでもなく、明確な承認なしに推測されるものでもない。加害者のアルコールの摂取による強制的な性行為も許容されない。(ミシガン州の法律においては加害者のアルコールの摂取の有無にかかわらず加害者は同様に裁かれる)沈黙は同意を意味しない。(それは拒絶と推測されるべきで、性行為の行為者は相手から明確な承認を得る必要があり、それがない場合は強制的な性行為である)

また、二者の間に権力の差がある場合は(雇用主と従業員、教師と生徒など)2人のセクシュアルな関係にこの権力構造が影響を及ぼしていないとは考えにくい。

ミシガン大スチューデントセンターのsexual assault prevention and awareness centerは最後にこう締めくくっている。

 

When coercion is used to convince a person to have sex or engage in sexual activities when they not want to do so, this is sexual assault, as defined by Michigan law.

Some examples of coercion are saying things like “If you loved me, you would”, threatening self-harm, or making someone feel as though they owe someone sex for buying them dinner, giving them gifts, etc.

 

このような脅迫が相手の意に反する性行為への説得に使われるばあい、これはミシガン州法によってsexual assault(レイプ・強制わいせつ)と定められている。脅迫は、例えば「愛しているならセックスしてくれるはずだ」と言ったり、自傷行為をほのめかしたり、食事代の支払いやプレゼントと引き換えにセックスしなければならないかのように相手に感じさせたりすることで行われる。

 

(感想)

 

ある犯罪が、犯罪被害者の落ち度によることはない。TEDxTalksで誰か女性権利擁護者が言っていたが、性犯罪は女性問題ではない。性犯罪で犯罪におよぶのはほとんどが男性であり、問題となるのは男性だからだ。また、被害者のおよそ10%は男性の加害による男性の被害者だ。(つまり被害者が女性に限らない)

端的にいうと性犯罪は男性問題である。だから女性の服装とか一人歩きとか言動(あなたが彼を刺激するようなことを言ったんじゃないの?)に焦点をあてるのではなく、男性がなぜこれほどまで加害におよぶのかを研究した方が解決が早いし筋道だっている。

「性犯罪は男性問題」という認識と、「セックスの合意をとるのは、行為者側の責任」というコンセンサス、どこまでが合意でどこからが脅迫を用いた性行為なのかを、二者の間の権力構造を理解すると共に意識していくことが重要であろうと思う。

路上での(主に男性から女性への)嫌がらせ、舌うち、過剰な接近、脅しかけについてとその他もろもろ

今年から大学に入ったので忙しくてすっかりブログを放置してしまっていた。楽しみにしてくださっていた方(いるかどうか分からないけども)ごめんなさい。今回は長らく悩ませられてきた公共空間での男性からの嫌がらせ行為について書きたいと思う。

物心ついたときから、男性と空間を共にすることは不愉快でプレッシャーのかかる経験だった。電車、病院、路上、店などの公共空間で、私は常に男性から嫌がらせに遭ってきたし、今もそうだ。まっとうで品がある男性には非常に申し訳ないが、”男性から”と言うのには理由がある。それは、男性からしか嫌がらせを受けないからだ。日々付きまとわれ悩まされるそれは、必ずしも性的なものではない。性に根ざして嫌がらせが行われていることは明白だが(男性が男性に、私にするような嫌がらせをしているのを見たことがない。”嫌がらせ”とは、例えば舌打ちとか、凝視とか、あからさまな貧乏ゆすりとか、意図的な過度な接近とか、唸り声を上げたりだとかである)、首都圏に住まない私は電車内で不本意に触られるという性的攻撃を受けることはないし、飲み会とかサークルとかに参加しないインディペンデントな生活を送っているので、あからさまな性的攻撃とかにあうことは、今のところは少ない。せいぜい夏期に胸元を凝視されるくらいだし、そういう不愉快な視線を視界から外せばよいだけだ。

多くの男性は、自分が私を凝視しているのに、見返されると腹を立てる。自分は視る者であり、若い女は視られる者、自分は支配者であり、相手はそれに従属するもの、とでも思っているかのようだ。何度も繰り返すが全ての男性がそうではないし、人間性の成熟という点において、性別は関係ないことも分かっているし、私はマンヘイターでもない。しかし、マンヘイター(男嫌いの意)になりたい要素は日常にてんこもりだ。

さまざまな経験、筋肉の病気などを通して私は以前よりも図太くなり、男が怖いとはもう思わないが(何せ彼らが私に与えられる苦痛以上の苦痛を十年以上毎日毎日経験させられてきたのだから)ただ不愉快だし、公共空間、特に電車などに乗るのはおっくうである。以前カナダを旅したことがあったが、そこから帰国して一番初めに目に付いたのは、日本の男性の品の無さだった。遠慮の欠片もなくくしゃみはする、道も席も譲らない、女などが邪魔な位置にいようものなら舌打ちして睨みつける、女性店員に説教をする、などなど、数え上げればきりがない。基本的に公共空間で男性の思いやりを見たことがない。そうじゃない人もいるだろうが、多くが女性を踏みつけ、搾取し、うっぷんの捌け口にしようとする。フェミニズムにおいて女性は”セカンドシティズン――二級市民”などと称されたりするけれども、私の感覚では女性は、この国において、私の住む地域において、二流市民ですらない。家畜、ゴミ箱、虐待のためのターゲット。いや、少なくとも家畜は虐待されたり嫌がらせをされたりもしないから、家畜未満だ。

私は、女性は相当にこれで悩んでいると思う。比較的リベラルで女性問題に関してはまともな父親をもち、経済的に恵まれ、筋痛症というハードな経験を通して図太くなった(私は筋痛症を、その激烈な痛みともろもろの葛藤、人間関係の崩壊、周囲の無理解による苦悩の存在にも関わらず、最近天からの恩恵であったと考えるようになった。痛みを患う前の自分はあまりにも弱く、傲慢で、女性差別的で、自信がなく、男性から女性への虐待を正当化していたからだ。もし筋痛症がなければ、私は人を傷つけ、日々の男性からの嫌がらせの中で疲弊しきって生きていくことができなかっただろう)私でさえ、公共空間に長く晒され、嫌がらせを受けた後は深い鬱状態に落ち込む。まともな人もいる。でも、この国の差別的構造はあまりに根深く、過酷で一人で受け止めるには大きすぎる。

一つ確かなことは、そのような攻撃を行う者や、女性に対して暴力を行使する者は、相手の身体は壊せても魂は絶対に壊せず、その報いを確実に受けるということだ。弱い者に対しての暴力が野放図にされている環境で自分を保つのは難しいことだ。聖書から引用をとると”滅びに至る門は広く、正しき場所への道は狭い”だ。聖書を全て信じるわけではないが、いい引用が結構あるのでたまに読んでいる。もっといえば、精神的につらい時に救いになることもある。

とにかく私はこの過酷な環境から抜け出したい。ツイッターのハッシュタグ「日本を脱出したい女子会」などからもみうけられるように、海外脱出を望む女性は少なくない。そしてそれは女性に限定しないかもしれない。あまりにも急激に経済的に発展し過ぎたこの国のひずみに苦しませられる人々は少なくない。ダメになったら別のことを試してみればいい。トライしてトライしてトライすることが、成功への鍵だ。私は未知の病気をつきとめるために他の人が一生で訪れる位の回数医者を訪ねた。そして原因を見つけることに成功した。だからもうきつくてきつくてダメそうな方に、トライを重ねればきっと道は開けると伝えたい。”求めよ、さすれば与えられん。門を叩け、さすれば開かれる”だ。未来への扉を連打し続ければ、私たちはいつかきっと幸せになれると思う。

 

大人の女性とは

「大人の女性」もしくは「大人」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?私は、真っ先に、メディアや周囲の人間によって作り上げられた、「大和撫子」の像が浮かびます。「上品で、楚々として、控えめで、努力家で、でもチャーミングで、しかし派手な格好や、アピールはせず、常に受け身で、でも家事育児を完璧にこなし、子供を守る為なら断固として立ち上がって、夫を立てて、自分をひけらかさず、夫/パートナーの愚痴を垂れ流したりせず、恥じらいのある、でも魅力的で、(主に)男性の要求にいついかなるときも応えることができる――たとえ自分が望んでいなくても――他人を優先させる――性的関係においてさえも拒まない――――女性」だからこそ、私は「大人の女性」になることを頑なに拒んできました。「大人」になることはいい。でも、「大人の女性」になることはいやだ。なぜなら、それは自分の人権と意志を剥奪されることだから。気遣いや想いやりや相手の世話をいついかなるときも優先させるのは、もしそれが報酬を伴っていなければ奴隷と同じです。私は奴隷にはなりたくありません。

でも私たちは大人にならなければいけません。「大人になる」とはどういうことか、興味深い記事があったので紹介します。題名は、「”The 11 Differences between A Girl and A Woman”女の子と、成熟した女性はどう違うか?」、米国のマガジンHuffPostからです。

まず、著者のAmyは、女の子が感情のコントロールができないのに対して、女性は、内面に葛藤を抱えたとき、それに冷静に対処する能力があると言っています。このあたりは、日本における言説とさほど違いはないようです。しかし、ここからが重要です。

彼女は、成熟した女性やそうでない人が、どこに自分の価値をおいて相手と交際するかというテーマにおいて、少女が彼女の美しさ、外見を対価として相手と関わるのに対し、”A woman bases her value on her intelligence, her strength, her integrity, her values, her contributions, her humanity.” 成熟した女性は彼女自身の知性、強さ、誠実さ、価値観、人間性に重きをおく、と主張しています。誰かと付き合うとき、自分の容姿を売りにするのはあまり賢くない選択だと思います。それは、人間の関わり合いにおいて、二次的なものだからです。そして、いずれ廃れていきます。私も、たしかに見た目に惹かれることはままあります。しかし、それは一時的なものでしかないと分かっています。一晩限りの浅い関係ならそれでもいいかもしれませんが、私はもちろん、深い関係を築きたいし、彼女の中身こそが重要だと思います。そしてまた、経済的に自立することも「大人」になることの第一歩です。”A woman plans to be financially independent — she banks on… herself. “成熟した女性は、自活する――。日本において、女性には通常、容赦ない二者択一を迫られる時期が、二十代後半から三十代にかけてあります。「キャリアか子供か」です。育児休暇や出産休暇が多くの企業であまりに短すぎ、アンフェアで、通常、女性は企業を一度辞めざるを得なくなります。企業は男性への育児休暇などもってのほかだと思っているので、協力が期待できない中、仕事をやめずに子育てをするのは、何か超能力を持った人でなければ不可能です。更に、女性にはガラスの天井があり、もし仕事を選んだとしても、通常、昇進は男性より遅く、昇給も遅く、給与は男性に比して少なくなります。また、一部の理系科目では、いまだ厳然とジェンダーバイアスがかかった教育によって、能力や資質ある女子生徒のやる気をそぎ、それが成績の低下を招いています。(例:女性の数学の能力は男性より劣っている、女性は理系の勉強や仕事には向かない、など。私も高校時代に、数学の教師からそういうことを言われました)。

このような背景がある中で、「専業主婦願望を持つ女性」を十束ひとからげに「未熟な女性」というのは適切ではありません。彼女たちは硝子の天井を知り尽くしたうえで、戦略としてそう言っているのだと私は思います。しかし、経済的に自立できることが、女性にとって大きな力になることは言うまでもありません。経済的に相手に頼るというのはそれなりにリスクがあることだと思います。例えば、生活の主導権を相手に握られるといった日常的なことから、ドメスティックバイオレンスや、同意を得ない性行為まで、そのリスクは多岐にわたります。

そして筆者曰く、”She also understands that in the event she wants to create a family, having a person in the household who can contribute domestically is important.”大人というのは、家庭をきずこうと思ったときに、家庭に貢献できるパートナーを選ぶことができる人だ。――だそうです。妻がパートナーに家事の協力や、家庭のイベントへの貢献を求めることは、わがままでも何でもありません。それが、成熟した女性に必要な資質です。例えば、出産、育児というのは大変で莫大なエネルギーがいる仕事です。それを一人で成し遂げることはできません。更に家事ともなれば、パートナーの協力は必要不可欠です。それを求めることが、どうして不適切だとされるのでしょうか。言うまでもなく、それは「良いパートナー」の資質です。「家事は女性の仕事」とタカを括っている男性は、パートナーに先立たれたり、離婚したときに、悲惨な人生が待っているでしょう。

Amy Chan,The 11 Differences Between Dating A Girl And A Woman, HUFFPOST WOMEN

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摂食障害ーanorexia, bulimia

  
Eating disorder – 摂食障害は一般に、低い自己評価、理想のボディイメージへの執着によっておきるとされている。

発症者のほとんどは6-30代の女性。

拒食症については近年7-8歳の例も多く報告されており、低年齢化が進んでいる。

摂食障害を引き起こす原因は、過剰な「痩身」理想化である。

ダイエット産業が、儲けるためにCMや広告で繰り返し強調する「太っていることは美しくない。健康でもない」というメッセージ。

あばらが浮き出るほど痩せたモデルしか出てこないランウェイやファッション雑誌、テレビ番組、映画。

不健康な細さのバービー人形。

誰一人として太っていないディズニープリンセス。

私達女性が日々受け取る「痩せていることは美しい」というメッセージは膨大な量に及ぶ。

皮肉なことに、DHCプロテインダイエットのCMの後に、サーティーワンアイスクリームのアイスを美味しそうに頬張るタレントが出てくる。

私達が耳にする「デブ」「太い」という嘲笑は私達を不安にさせ、ダイエットをしなければという気にさせる。一方でコンビニにはいればアイスも、ケーキも、ハンバーガーも、高カロリーな炭酸飲料もすぐに手に入り、新聞の広告欄や、テレビのCMでの「期間限定」のハンバーガーにどうしても興味が湧いてしまう。

ではどうするか?

過食症がしばしば嘔吐症状を併発するのはよく知られている。

軽く見られがちなEating disorder ー摂食障害ーは、どのタイプも深刻な問題を引き起こす。

拒食症は、患者の致死率が5-25%という、もっとも死に近い精神病のひとつだ。

実に罹患したものの1/5-1/4が死に至る病である。

本国での統計は目にしたことがないが、アメリカにおいては、女性の7人に1人が罹患しているという報告がある。先に述べた通り患者の低年齢化が進んでおり、たった9歳で罹患してしまったある患者は

自分が病気であることを受け入れず、頑なに「健康なライフスタイル」を選択しているだけだと主張した。(実は、これは多くの拒食症患者が信じ込んでいる妄想でもある)

「健康的なライフスタイル」を実行した彼女の体重は危険なまでに落ち、入院せざるをえなくなった。

こういうケースは多々ある。

18歳で成人とみなされるイギリスで、痛ましい事件が起こった。

Laura Willmottさんは5年の間拒食症と戦ってきた。入院を必要とされるケースで、18歳になるまでは、強制的に入院治療をされていた。

これが彼女の命を救っていたことは言うまでもない。

18歳になり、彼女は治療をやめる権限を持った。

症状が安定していたこともあり、医者は通院治療を許可した。

彼女は約束を破ってその後一回しか通院せず、その間13kg体重が落ちた。

ついに、彼女の心臓は負担に耐えかね、止まってしまった。

彼女はそのとき45kgしかなかった。

これを聞けば、いかに拒食症が危険か分かるだろう。

東洋人と比して西洋人の骨格ががっちりしていることを鑑みても、この45kgという数字には大きな意味があると思う。

必要な分をちゃんと食べているか図る便利な指標があって、それがBody Mass Indexである。

もしあなたが160cmであるならば、少なくとも45-46kgはなければならない。それ以下では「低体重」となり、これは心臓病や腎臓、肝臓不全を引き起こしやすくなる。

もし165cmのモデルが、45kgだったら低体重である。

40kgだったら、超低体重で、摂食障害に罹患していることは間違いない。すぐに病院に行かなければ生命の危険があるレベルである。

WHOはBMI18.5以下を低体重、16以下を超低体重と規定しており、健全なのはBMI18.5-23.5である。

しばしば嘔吐を伴う過食症は、嘔吐を繰り返すことにより食道や喉を傷つけ、食道がんや喉頭がんのリスクを高め、吐き戻しによって歯がボロボロになり、さらに嘔吐時に心臓の不整脈を起こし死に至ることもある。また、深い絶望から自殺を図る患者も少なくない。

このように心身に多大なダメージを与える摂食障害を誘発するような広告や言説の撒き散らし、「デブ」という嘲笑はできる限りなくしていき、長い戦いが予想される患者に手遅れにならないうちに適切でふさわしい治療を提供していくのが、精神科医の義務であると思う。