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明治期から昭和にかけての女性の人身売買を描いた傑作、「親なるもの 断崖」part1

一見ミソジニーに満ちた広告のされ方をした、その実傑作な漫画’ 親なるもの 断崖(曽根富美子作)

はじめにこの作品の広告をインターネットで目にしたのはひと月ほど前だった。それがこの画像である。

   
 
短絡的で直情型の私は、この広告が出てくるたびにイライラとしていた。売春をしてでも男とセックスをしたい女への嘲弄、外見主義がその宣伝文句から透けて見えたからだ。はじめは読む気などしなかったが、記事を書くにあたりどのくらいミソジニックなのか調査する必要があったので、まんが王国で購入して読んだ。

そしてそれが、明治末期から第二次世界大戦の終戦頃まで実在した、北海道室蘭市にある幕西遊郭に売られた東北地方の貧農の娘たちを、彼女らの視点から描いた傑作であることを知った。どの程度史実に基づいているかは分からないが、曽根氏はかなりの文献を読み込んだようだ。作品は女性の目線で描かれ、奴隷同然で働かされ、身も心もズタボロになるセックスワーカーたちが直面した悲惨な現実をあますところなく描いている。

しかし本題に入る前に、ミソジニーという用語の解説と、それがどのように性差別社会を導くのかをまず述べたい。

1:ミソジニー/女性嫌悪 とはなにか
ミソジニーというのは、女性性を劣ったものとみなし、嫌悪し、排外することである。この社会に生きる者でミソジニーから逃れられる者はいない、と喝破したフェミニストの上野千鶴子氏は著書’女ぎらいーーニッポンのミソジニー’の中でミソジニーを、’自分を性的に男だと証明しなければならないそのたびに、女というおぞましい、汚らわしい、理解を超えた生きものにその欲望の充足を依存せざるをえないことに対する、男の怨嗟と怒り’ と定義付けている。

  
この、’男であることの証明’という概念は正しくて、男は男らしさをうまれながらにして持つのではなく、’常に証明し続けなければならない'(マッチョな体を持つことによって、危険を顧みない行為ーースタント、F1ドライバー、無茶な運転ーーによって、女性より明晰であることによって、腕力があることによって、アルコールを過剰摂取することによって、女を支配することによって、何事にも怯えない態度によって、金銭力によって、キャリアによって……etc) その証明は、24時間365日なされなければ、男は社会(主に男が支配する) に認められない。

男が男らしさの型に、女が女らしさの型にはめ込まれる社会が性差別社会であり、そこに埋め込まれた核がミソジニーである。このミソジニーからは男性も女性も被害を被るが、主に被害者となるのは女性である。

2 性差別は女の自治権を許容しない/女を客体化する

性差別が蔓延した社会ではレイプカルチャー
があり、女の客体化がある。客体化というのはある人間から主権を剥奪し、モノ化することだ。この’モノ’を使うのが、主体、すなわち男性である。

-客体化の問題

客体化の何が悪いのか?まず、モノの意思は尊重されない。なぜなら物体であり人間ではないからだ。モノは代替可能であり、使い手の意向に合わせて形成される。モノは傷つけてもいい。人がモノに貶められたとき、貶められた人間は残虐に扱われる。人間ではないから。客体化がより残酷な様相を呈したかたちが人身売買、強制売春であり、日本はアジアで第一の人身売買大国(e)である。

私たちが日常的に触れる女のモノ化は、性的に強調された尻、胸、など女の体、ビキニ姿のCMモデル、果汁グミと一体化した石原さとみ氏(女は食べられるべき、消費されるべきものという暗喩、女のモノ化。他に’とちおとめ’ と名付けられたイチゴ、秋田小町という米など) などがある。胸フェチや脚フェチなどのフェティッシュも、個人の個人性を無視しその人の人間的価値を身体のある部位に収斂させるという行為によって相手を非人間化する。(この行為は男性に対して行われた場合にも有害であると言っておくべきだろう。彼らに対して行使される頻度は女性を対象とするものの十分の一くらいなわけであるが)

客体化の核は、主体性と個別性の否定であり、これが起きたときヒトはモノ化され、代替可能なものとして搾取される。

性差別的社会では、女が自分の身体をコントロールすることは許されない
-ダブルスタンダード

私たちはしばしば男性とことなる基準を満たすよう求められ、それはしばしば不公平な要求である。そして基準を満たさなければ責められる。私たちを糾弾する慣用表現の例はたくさんある。

例えば、セックスを楽しむ女は’はしたない/淫乱/ビッチ’ 交際人数が多い男は’男らしい’

リーダーシップをとる男は男らしい、同じことをする女はじゃじゃ馬、性的な話題を話す女ははしたない、欲求不満、男は「男ってそんなもの」、旦那を支配する女は悪妻/カカア天下、妻を支配する男は亭主関白、などと呼ばれる。

更にこのダブルスタンダードは公共の場にも持ち込まれる。(なぜならミソジニーが浸透した社会では、女性は男性とは異なる’基準’ を満たすことを暗黙のうちに求められるからだ)

外出するとき、女は普通身だしなみを整え、男の、ひいては男社会の鑑賞にたえうるすがたになることを要求される。つまり髪を整え、眉毛を抜いて描き、ファンデーションでしみを隠し、紅を引き、頬紅を差し、手足とワキの毛を剃り、適度に性的で適度に清楚な女性らしい服装であることを常に求められる。常に従属的な態度でいることも’女らしさ’ のひとつ。つまりあまり大声で話さず、男性に道を譲り、男性をまじまじと見たりせず( なぜなら鑑賞するのは男の側であるべきだからだ) 申し訳なさそうに俯きがちに歩くこと。公共交通機関で脚を広げないこと( 男のそれは許容される。英語圏では過度に開脚して座る男のことをManspreading (e)といったりする) 、堂々と立たないこと。これらの女性だけに適用される基準を満たさなければ、女を捨てている、おばさんっぽい、男っぽい、こじらせ女子、女らしくない、などと糾弾される。あたかも女性の人間的価値は、女らしさを満たすことによって充填されるかのようだ。生物学的に女の特徴を持ったが最後、その人間の価値は従属性と美しさにのみ帰するようだ。しかし、その過程で行っていることは女性の非人間化であり道具化である。

パート2につづく……

(E)=(英語)