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女性を眺める/凝視する男性は何によって生み出され、また何を考えているのか?

お久しぶりです。長らく放置してしまってすみません。

この一年間は、小説に取り組んでいたため更新が滞ってしまいました.

またぼちぼちやっていこうかなと思っています。今回のテーマは、「男性から女性に向けられる視線について」です。

―――――――――――――――――

「男性が女性を遠慮なく‘鑑賞する’のはなぜか?」

これまでずっと、電車やバスなどの公共交通機関で、図書館や市民センターなどの公共施設で、路上で、店で、レジャー施設で、男性からの視線を受け続けてきた私は、また、他の女性がそのような視線を受けるのを見てきた私は、なぜこのような現象が起こるのか疑問に思っていた。

男が女を見る、という構図はあっても、逆はない。これはいったい、どういうことなのか?

私自身、そのように見られて愉快な思いをしたことは少ない。‘人をじろじろ見るのは失礼’という価値観の社会に生きているため、それを内面化(その価値を自分のものとして取り入れること)しているし、他の人にもそれを守ってもらいたいと思うからだ。

特に、女性よりも圧倒的に強い経済的・社会的権力をもっている男性からの視線は恐怖すら呼び起こす。男性から女性に向けられる暴力は、街角で、家庭で、絶えることなく、この社会に蔓延しているからだ。

そこで、この不愉快な視線を以下で少し分析してみたいと思う。キーワードは、‘物化:Objectification’ である。

性やジェンダー、LGBTQ問題、人種問題などに鋭く切り込むブログBroad Blogsの管理人、Georgia Plattsさん(Foothill Collegeで社会学と女性学を教えている)によれば、これは、女性の性的物化(Sexual Objectification) による産物とのこと。

では、性的物化とは何か?スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy) をひくと、

  1. instrumentality: the treatment of a person as a tool for the objectifier’s purposes;

 2.  denial of autonomy: the treatment of a person as lacking in autonomy and self-determination;

3.  inertness: the treatment of a person as lacking in agency, and perhaps also in activity;

4.  fungibility: the treatment of a person as interchangeable with other objects;

5.  violability: the treatment of a person as lacking in boundary-integrity;

6.  ownership: the treatment of a person as something that is owned by another (can be bought or sold);

7.  denial of subjectivity: the treatment of a person as something whose experiences and feelings (if any) need not be taken into account.

Rae Langton (2009, 228–229) has added three more features to Nussbaum’s list:

8.  reduction to body: the treatment of a person as identified with their body, or body parts;

9.  reduction to appearance: the treatment of a person primarily in terms of how they look, or how they appear to the senses;

10.  silencing: the treatment of a person as if they are silent, lacking the capacity to speak.

Papadaki, Evangelia (Lina), “Feminist Perspectives on Objectification”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2015 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL=<http://plato.stanford.edu/archives/win2015/entries/feminism-objectification/&gt;.


(訳)

1 instrumentality(道具性): 物化する人の目的のため、当該人物※は道具として扱われる

2 denial of autonomy(自主性/自律性の否定):当該人物を、自律性と意思を欠くものとして扱う

3 interness(不活性):当該人物を、主体性と行動性を欠いたものとして扱う

4 fungibility(代替可能性):当該人物を他の物と代替可能なものとして(交換できるものとして)扱う

5 violability(破られ/侵されうるもの):当該人物は、境界線と統合性を欠くものとして扱われる

6 ownership(所有の概念):当該人物を他の人に所有される物として扱う

(その人は売られ得るし、買われ得る)

7 denial of subjectivity(主観性の否定):当該人物のどのような経験や感情/心情も考慮されない

8 reduction to body(身体への還元):当該人物を彼女/彼の身体、あるいは身体の一部分と同一視する

9 reduction to appearance(容姿への還元):当該人物は主として、容姿、あるいは感覚にどのように訴えかけるかに基づいて扱われる

10 silencing(黙殺):当該人物は、彼女/彼があたかも黙っているかのように、あるいは話す能力がないかのように扱われる

 

※その人(ここでは女性を指す)

 

これらをPlattsさんが言い換えたのが以下

 

  1. a person is seen as existing for someone else’s purposes, who feels a sense of ownership

2. the person lacks agency, autonomy, self-determination and voice
3. boundaries aren’t respected
4. the person’s experiences and feelings aren’t taken into account
5. the person is interchangeable
6. looks are all that matter and the person is reduced to their body, or body parts

Georgia Platts,  What’s Wrong With Objectification?, Broad Blogs


(訳)

1 その人は、その人を所有している感覚のある誰かのために存在しているとみなされる

2 その人には主体性も自律性も意思も声もない

3 相手との境界線は尊重されない

4 その人の経験や感情は考慮されない

5 その人は代替可能である(その人には代えがある)

6 見た目が全てで、その人の価値は、身体・身体の一部に減じられる

―――――――――――――――――――――

以上が‘人の性的物化’(Sexual Objectification)である。

ここで初めに戻る。男が女を見るのはなぜか?

――彼らは女性を物化して‘鑑賞物’として自らの満足のために見ているのだ。女性を、独自の精神生活や感情をもつ人間としてではなく、物として、自分の目的のために使用する。

魅力的なのだから、見るくらい良いじゃないか、という意見もあるかもしれない。しかし、その考え方こそ、女性の物化という現象が存在することを裏付けるものだ。つまり、女性が見られてどう感じるか――不愉快になるのか、不安になるのか――は全く考慮されていないのである。

そういう人々は、女性を人間として見ていない。彼らは、自分を満たすための道具として相手を‘使っている’のである。

道具には、意思も主体性も感情もない。だから、それらを考慮する必要もないし、傷付けてもよいのだ。

 

今日の日本社会においては、日常のあらゆる場面――テレビやその他の映像媒体、雑誌、漫画、ポスターなど――で、女性は‘性的な物’に還元されている。彼女らは‘聞かれる’のではなくただ‘見られる’存在として提示され、私たちの頭を、女はただ、男の悦楽/快楽/娯楽/愉しみ/満足 のためにのみ存在するのだ、という考えで汚染してゆくのである。

日本人男性の自殺率が女性のそれより高いのだから男女差別は存在しない(あるいはあっても微小なもの)という言説について

男性の自殺率が女性のそれより高いのだから男女差別は存在しない(あるいはあっても微小なもの) という言説について

性差別を語るときに、性差別があることを受け入れられない、受け入れたくない人々(主に既得権益を失いたくない男性) はしばしば日本人男性の自殺率は女性より高いのだから性差別などない、という論理を展開しがちである。男女間の賃金格差、/男性が女性の数倍いる国会、内閣、省庁、市議会、町議会、裁判所、/少ない女性医師、女性技師、女性大学教授……など女性に影響力を持たせることを許さぬ日本社会/女性に偏って求められる結婚後の苗字変更、女性のみ離婚後一定期間再婚を禁じる(憲法の両性平等に違反すると思われる) 法律の現存、シングルマザー家庭の深刻な生活苦、看過される性犯罪、日常のあらゆる場面での嫌がらせやストリートハラスメント……これらの差別が自殺率がより高いという一点のみによって無化されるとは到底思えないが、この言説の問題点は量的なものだけではない。

1. ひとはある特権を持つと同時に抑圧され得る
特権を持っていることは、差別されていないことを必ずしも意味しない。例えば、白人の女性は、女性として抑圧されるのと同時に白人としての特権を持つ。ゲイの男性は男性として特権を持つのと同時に性的指向に基づく差別を受ける。このように、誰しもが特権を持ちつつある分野においては差別される。完全な抑圧者、被抑圧者はほとんどいないだろうと思う。誰もがマジョリティーに属しつつマイノリティーにも属しているということだ。

女性は”強くなくともよい” という有利な点を持つ。(男性が困難や悲しい喪失に直面しても嘆き悲しんではいけないのとは対照的に) 弱さを表現できる、存分に泣き、友人や家族や恋人に助けを求めることができるというのは健康的な人間のあり方である。誰にでもどうしようもないときはある。それを”女々しい”などと言って男性に禁じることは男性の精神的健全さを阻害する可能性がある。これは男性に不利な点であることは間違いがない。

しかし、たとえ”弱さを露呈できる”というある種の特権を女性が有していたとしても、別の側面では差別されていることにはかわりなく、自殺率が男性より低いことが他のもろもろの差別を無化することはないと考える。

2. 男性差別を作ったのは男性

男性差別があるとして、その責任を女性に負わせるのはお門違いだろう。なぜなら日本においては少なくとも過去2,3世紀女性の発言権はなく、現存する日本社会を作ってきたのは男性だからである。彼らがこういう言説を作り上げるのは、自分の祖先の犯した間違いをフェミニストになすりつけることで自らの特権も忘れて被害者ぶることができるからだ。特権階級はしばしば自分たちの責任をスケープゴートに転嫁する。そのスケープゴートとなるのは、社会で抑圧された者、すなわち女性、LGBTQIA,トランスジェンダー、障がい者、有色人種、などである。
男性に男らしさの証明を要求する社会、男が強くなければならない社会を作り上げたのは男性だった。(ジェンダー問題などを取り上げるBroad blogsでは、Men Commit Suicide Because of Feminism? で、 アメリカにおいては、もっとも特権をもった白人男性の自殺率がほかの人種の男性に比して高いことから、高い期待が高い自殺率を呼ぶ、と結論づけている。)

だから男らしさを押し付けられる、男性差別に抗議しようとして、まさにその”らしさ” ”ジェンダーロール”の解体を目指すフェミニストに文句を垂れるのは向かう対象を間違えている。

男性が男性差別をなくしたければ、権力者、すなわち男性に向かっていくしかないのである。

リベンジポルノの非合法化に尽力した人+海を越えリベンジポルノを告訴したひと(アップデート)

警告:レイプへ言及

・リベンジポルノとは?

リベンジポルノとは、恋人が振られた腹いせに元恋人の承諾なく、ヌードなどを含めた画像、動画をインターネットサイトに投稿することです。米国において非合法化が推進されたこと、日本においてある加害者が元恋人を殺害した上リベンジポルノをばらまいたことは記憶に新しいですね。
theguardianのI was a victim of revenge porn.では、頭のおかしい元恋人に付き合っていたときに撮らせた画像を住所名前職場の個人情報つきで投稿された女性が、必死に闘う姿が描かれています。そして証言台に立ち、他の団体の活躍などもあって、法が修正され、インターネットを不適切に使用したものは罰せられるという条項に従い加害者は有罪になるところまでこぎつけたようです。ただこの法律は州レベルなので連邦レベルで女性をリベンジポルノから守る法律を通せるよう要求していくとのことです。
アメリカではカリフォルニアもリベンジポルノを違法としています。

・チンバーズさんの戦い

アメリカ人のLGBTQIA+活動家であり、ユーチューブチャンネル、BriaAndChrissyの管理人、人気ユーチューバーのクリッシー・チンバーズさんもまたリベンジポルノの被害者です。彼女は十代のときに付き合っていた彼氏に別れたい旨を伝えたところ、相手から酒を飲まないかと誘われました。承諾し、夕方、一緒に飲んでいるうちに彼女は泥酔し意識を失いました。彼女はその後に起こったおぞましい出来事を全く覚えていませんでしたが、交際相手は意識のないチンバーズさんをレイプしたあげく、その様子をカメラで撮影していました。撮影された動画がネットに出回っていると知ったのはそれから何年もたってからでした。彼女はチャンネルの購読者のコメントでそのことを知り、ショックで、PTSD,悪夢、鬱状態に苦しめられ、アルコールを摂取することで気を紛らわすようになりました。彼女の現在の恋人であり、一緒にチャンネルを運営しているブリアさんは、チンバーズさんの苦悩する様子に非常に心を痛め、夜、彼女が寝静まった後にネットを検索して、彼女の動画が新たなサイトに上がっていないか毎日確認していたといいます。チンバーズさんのアルコール摂取量は増え続け、ついに急性アルコール中毒で死にかけて入院(E)するという事態にまで発展しました。さらに、最終的に35のポルノサイトに広まり、数万回再生された動画は、元交際相手の顔のみぼかしが入れられており、このリベンジポルノによってチンバーズさんは精神だけでなく経済的にも打撃を受けました。ユーチューブチャンネルの購読者数が減り、それが数千ドルの損失となったのです(E)

チンバーズさんははじめレイプの被害届をアトランタ警察に提出しましたが起訴には至りませんでした。そこで彼女は、元交際相手が動画をイギリス滞在中にネットに投稿していたことから、イギリスへ飛び、そこで民事訴訟及び刑事告訴の手続きを行いました。今は起訴できるかどうかの返答待ちですが、彼女はイギリスで初めてリベンジポルノに対する民事訴訟及び刑事告訴をした人物となりました。

イギリスでは今年4月にリベンジポルノ法が施行され、誰かの性的な映像や画像を相手の承諾なく悪意を持ってネットに投稿することは違法となりましたがチンバーズさんが被害を受けたのはかなり前だったためその法律は適用とならず、別の法を用いなければならないため弁護士は苦戦しているよう。これまでも女性の権利のために闘ってきた弁護士、Ann Olivarius氏は言います

We know what has to get done, we know this is wrong, we know that society should not tolerate this, it’s not acceptable behaviour, but still they get away with it all the time.

私たちは何がなされるべきかわかっている、リベンジポルノがいけないことだということも、社会が許容すべきではないことも、これが許されない行為であることも理解している。それなのに未だ加害者はいつも罰されないのが現状なのだ。

ガーディアン社は何度もチンバーズさんの元交際相手にコメントを打診したが、返答はなかったとのことです。

明治期から昭和の女性の人身売買を描いた傑作「親なるもの 断崖」part3

*ネタバレがあります

*(e)=(English)

4,ミソジニー社会が生み出したミソジニックな広告の仕方

ここでいよいよ本題に入る。

作品の内容はひとまず置いておく。作者がフェミニズムを理解していることは疑いがない。

問題なのは広告の仕方である。あの広告を見て作品を読む気になる女性がどれだけいるだろうか?数百ページにわたる物語の中で、広告の’ 醜女’ 道子は端役的存在である。

彼女は遊郭に売られた四人のうち唯一売春を望んだ存在であるが、物語の舞台である幕西遊郭より下級の女郎部屋に安く下げ渡されたのち患っていた病気により死亡する。道子の運命は悲劇的ではあるが、作品の主題はむしろ幕西でトップに上り詰めた娼婦お梅の、女であるがゆえに苦しみ抜いた人生にある。

股を腫らし1日10人以上の相手をしても、その人数は少なく記帳され、借金は一向に減らない。性病予防も避妊もなされない劣悪な環境で同僚は梅毒で、あるいは危険な中絶を行なったせいで死んでゆく。(吉原遊郭でも梅毒は顕著(e)であったようだ。)

客からの暴力で気が触れた同僚がわめき散らし、セックスの知識のないまま客をとらされた女はその翌日に首を吊る。( 性行為のやり方を教えられていない女性は通常高値で売れるため<水揚げ>)

逃げられないよう外出は制限され、広い空を仰ぐことも滅多にできない。

性奴隷同然で鎖に繋がれ、人権を剥奪されて虐げられる日々はまさに生き地獄。女が男を恨み、社会を恨み、その復讐のために娘を産んで次の世を託すというのが物語の本筋である。人間ではなく、快楽のための道具として社会のすべての構成員から虐待された性奴隷たちの中で道子は一種異質な存在である。誰も人間未満になりたくはない。ひとから’ 牛馬にも劣る存在’ などと言われたくはない。しかし道子はそれを望んだのである。

「性奴隷になってまで男を(どんな醜い、貧しい、老齢の男であろうとも) 求める女」という存在はしかし、現代の社会でも男に歓迎される。それは、そういう女の存在が男にとって都合よく、男を安心させるからだ。ミソジニー社会においては、性の自治権のない女、すなわちいつでもだれでも手に入る女は歓迎される。( そして女性がピルなどでおのれのセクシュアリティをコントロールしようとするやいなや社会は彼女らを糾弾し罰する)

道子はそういう自己評価が低い女であり、貞淑ではないことを責められる一方、賞賛される対象である。だからこそ、広告の担当者は意識的にせよ無意識的にせよ道子のシーンを抜粋したのだ。( 補足しておくと道子はただ性的快楽の追求のためだけに娼婦になったのではない。遊郭を逃げ出したお梅に連れられて行った地球岬で臨終間際に”おらァもう男とれね……おらァ…いっぺえ男とっていっぺえ金かせいでいなかの父ちゃんや母ちゃんに腹いっぺえごはん食べさしてやりたかったなァ” と売春の動機を語っている。<1巻p309>)

個人的には、作者はこの抜粋の仕方をあまり好まなかったであろうと推測する。もし私がウェブの広告のためにどこかのページを抜粋するとしたら、売られてすぐに知識のないまま客をとらされ首を吊った松恵のシーン(1巻43-46p) が適当のように思う。

-セックスワーカーも職業人

もう少し広告の表現を細かく見ていくと、職業蔑視の表現も気になる。(実際には仕事というより奴隷労働なのだが……)

「女郎に下る」という言い方はあたかも性産業に属するひとが、そうでないひとより人間として劣るかのようである。実際は職業は職業であり、他の社会人と同じように性的サービスを売ることによって日々の糧を得ている。職業に上も下もない。元セックスワーカーでセックスワーカー情報センターの創設者のMariska majoor氏は、売春はプロフェッショナル(e)な仕事でありお金を得る手段であると言い切っている。

(売春の自発性についての討論にて。この問題は別にまた論じたい)

-外見差別

“醜女” という表現はもちろん女性の価値が外見的要因によってのみきまるということを示唆する点で性差別的だ。しかし同時に、絶対的、普遍的美しさは存在するのかを私に考えさせる。

醜い人間は、美しい人間より人間的価値がないのであろうか。そもそも美しさは客観的に評価できる類いのものだろうか?科学的に裏付けのとれる’美’ の条件が何であるかはまだ解明されていないようだ。( ‘健康’ と美しさがリンクしているらしいことは分かってきているようだ—ひとがどんな顔を魅力的だと思うかについての研究で、ひとは対称的で平均的な顔をより魅力的だと感じる傾向があるということが判明したらしい。そして顔の対称性は健康状態とリンクしているという研究(e)もあるーーー)

どんな顔をもってして魅力的というかは、本能の他に文化的文脈も絡んでいることを忘れてはいけない。私たちはなぜ一重よりも二重まぶたを好むのだろうか?韓国のセクシュアリティやフェミニズムについてのブログThe Grand Narrativeによれば、それは社会が西欧化された(e)せいだという。

近代は西欧支配の時代だった。アジアで、アフリカで、西欧諸国の影響を受けなかった国はほとんどない。日本も例外ではない。開国に伴って生活様式も価値観も西欧の影響を受けた。私たちは着物を着なくなり、時計に従って行動するようになった。

西欧化の中で美は、より西欧人、白人の特徴を持つこととなり、くっきりした二重まぶた、大きな目は賞賛されるようになった。

この例からも見られるように、今日の” 美しさ” の定義は、絶対的、普遍的なものではなく流動的なものである。ある時代に魅力的とされた特徴は、別の時代ではそうではない。

5, 人身売買はまだ終わっていない

米国国務省の2011年の人身売買報告書(e)

などによれば、日本は先進国のなかでも特に深刻な人身売買の問題を抱えており、主に東アジア、東南アジア出身の女性と子供がその被害を被っているという。(詳細は以下参照)

Japan is recognized as having one of the most severe human trafficking problems among the major industrialized democracies.4 Japan is a destination country for women and children from East Asia, Southeast Asia, and to a lesser extent, Eastern Europe, Russia, and Latin America who are subjected to sexual and labor exploitation.5 Recruitment techniques are often based on false promises of employment as waitresses, hotel staff, entertainers, or models.6 Traffickers also use fraudulent marriages between foreign women and Japanese men to facilitate entry of victims into Japan for forced prostitution.7 
Human trafficking.org

日本は先進国のなかでも特に程度が高い人身売買の問題を抱えていると認識される。日本は主に東アジア、東南アジアの女性と子供が売られていく場所であり、また彼らより割合は低いが、東ヨーロッパ、ロシア、ラテンアメリカの人びとも含まれる。彼女らは性的搾取や強制労働の対象とされる。彼らを勧誘する手法には、よくウエイトレスやホテルの従業員、芸能人、モデルとしての仕事を約束して騙すという方法が使われる。人身売買を行う者たちはまた被害者を日本人男性と不正に結婚させて入国させ、強制売春に従事させる。(筆者訳)

悲惨な人身売買は決して過去のものではない。私たちはその被害を減らすためにこれから努力していかなければならないだろう。

明治期から昭和の女性の人身売買を描いた傑作「親なるもの  断崖」part2

つづき……

*(E)=(English)

-妊娠強要

望まない妊娠はどの女性にとっても恐怖だ。それはキャリアの中断を意味したり、身体に負担のかかる中絶を意味するだけでなく、精神的に大きな苦痛を伴うからだ。それを防ぐためには避妊が必要である。避妊にはさまざまな種類があるが、経口避妊薬、低用量ピルはかなり避妊効果が高いことで定評がある。

日本では医師の処方なしでは手に入らない上、保険がきかないが、

多くの国々(e)では薬局で市販されている。
また,避妊に失敗したときの緊急用経口避妊薬、モーニングアフターピルは、日本では高額であり保険がきかず、(緊急時なのに) 医師の処方が必要だが、(source 2)
(この現状を憂えて、ピルとの付き合い方、というサイト の管理人のruriko さんは、緊急経口避妊薬の市販化キャンペーンを行っている )

アメリカでは2013年から薬局で市販(e)されるようになり、
イギリスでは16歳以上であれば市販のものを処方箋なしで買う(e)ことができる。
しかし日本のような避妊後進国(e)が生み出すのは、中絶ビジネスで儲ける医者と、彼らに搾取され身体的経済的に負担を強いられる不幸な女性だ。
特に妊娠12週以降の中期中絶は身体への負担が大きくなり、将来不妊になるリスクもある。
ピルの認可にこれほど厳しい態度の政府は、既得権益を守りたい産科医との癒着による堕落と共に、女性の身体をコントロールしたい、女性に避妊手段を持たせたくないという意図をも想起させる。アメリカで、中絶を行うクリニックが嫌がらせ、誹謗中傷を受けたりするのと、日本で経口避妊ピルが広く認可されていないのは同じコインの裏表だ。男が女の妊娠出産をコントロールしたいということである。

卑近な例は、夫、または男性のパートナー(恋人) が相手の女性に妊娠を強要することである。

RH Reality Check でのMartha kempner の報告(e)によれば、

レイピストのRoman Polanskiは、次のように語っている。
” I think that the Pill has changed greatly the woman of our times, ‘masculinizing’ her,” (私はピルが現状の女性を大きく変えたとおもう。ピルは女性を男性化させたーー筆者訳) 

彼は自分の身体をコントロールするのは男性だけの特権であると信じ切った様子で語る。

“I think that it chases away the romance from our lives and that’s a great pity.”

( そしてピルの出現は私たちの人世からロマンスを奪った。とても哀しいことだ。)
ここで注意しなければならないのは、この犯罪者のいう”ロマンス” とは、女性を、男性の気まぐれで妊娠させられるという恐怖の状態におくことだ。女性にとって、そしてマトモな男性にとっても、これはロマンスでもなんでもない。

このような歪んだ思考は、レイピストなど犯罪者特有のものなのであろうか?残念ながら調査結果は反対を示している。

Kat Stoeffelの報告(e)によれば、 ロードアイランドの州立産婦人科医院の医師Lindsay Clark によって行われた研究において、調査をうけた女性641人のうち、16%ものひとがパートナー又は夫から妊娠するよう脅迫を受けたり、妊娠させるためピルを隠されたり、故意にコンドームに穴を空けたりされたことがあると答えたという。
男性はなぜこのような行動をするのだろうか?それは、女性を完全に自分の支配下におき、優越感に浸り、高揚した気分になるためだとRH Reality CheckのAmanda Marcotteはいう。(e)

加虐的な男は妊娠強要によって究極的に女性を自分に縛り付け、支配しようとする。男性は女性の所有者でさえある社会で、妊娠強要は珍しくないのである。

3,性犯罪は女の責任

性差別的社会では、シスジェンダーの男から女への性犯罪は軽く見積もられる。なぜなら’女のからだは男のもの’ という前提のもとに社会が成り立っているからだ。ありていにいえば、女はいつなんどきでも男の性的快楽を充足させるためにスタンバってるべきだ、という考え方だ。だから女が性的嫌がらせを受けたと騒ぐと、社会は、お前の着ていた服が悪い、出歩いていた時間が悪い、お前は繊細すぎる、そういうことを言うべきではなかった、などとおためごかしを言って問題の核心をつくことを忌避する。矛先を女性に向け個人攻撃をする。しかし社会がそういう行動をとることそのものが性差別が存在していることを実証している。問題の核心をずらそうとするのは、自分の言い分に裏付けがないことを自覚しているからだ。もし問題について話し合いを持ちたいという意思があれば、問題点を指摘されて、個人攻撃をしたりはしない。

ある特定の特徴をもつグループを、ある枠組みの中に入れて非人間化し、その責任を彼らになすりつけることは、古今東西行なわれてきたことであり、それが差別である。

明治期から昭和にかけての女性の人身売買を描いた傑作、「親なるもの 断崖」part1

一見ミソジニーに満ちた広告のされ方をした、その実傑作な漫画’ 親なるもの 断崖(曽根富美子作)

はじめにこの作品の広告をインターネットで目にしたのはひと月ほど前だった。それがこの画像である。

   
 
短絡的で直情型の私は、この広告が出てくるたびにイライラとしていた。売春をしてでも男とセックスをしたい女への嘲弄、外見主義がその宣伝文句から透けて見えたからだ。はじめは読む気などしなかったが、記事を書くにあたりどのくらいミソジニックなのか調査する必要があったので、まんが王国で購入して読んだ。

そしてそれが、明治末期から第二次世界大戦の終戦頃まで実在した、北海道室蘭市にある幕西遊郭に売られた東北地方の貧農の娘たちを、彼女らの視点から描いた傑作であることを知った。どの程度史実に基づいているかは分からないが、曽根氏はかなりの文献を読み込んだようだ。作品は女性の目線で描かれ、奴隷同然で働かされ、身も心もズタボロになるセックスワーカーたちが直面した悲惨な現実をあますところなく描いている。

しかし本題に入る前に、ミソジニーという用語の解説と、それがどのように性差別社会を導くのかをまず述べたい。

1:ミソジニー/女性嫌悪 とはなにか
ミソジニーというのは、女性性を劣ったものとみなし、嫌悪し、排外することである。この社会に生きる者でミソジニーから逃れられる者はいない、と喝破したフェミニストの上野千鶴子氏は著書’女ぎらいーーニッポンのミソジニー’の中でミソジニーを、’自分を性的に男だと証明しなければならないそのたびに、女というおぞましい、汚らわしい、理解を超えた生きものにその欲望の充足を依存せざるをえないことに対する、男の怨嗟と怒り’ と定義付けている。

  
この、’男であることの証明’という概念は正しくて、男は男らしさをうまれながらにして持つのではなく、’常に証明し続けなければならない'(マッチョな体を持つことによって、危険を顧みない行為ーースタント、F1ドライバー、無茶な運転ーーによって、女性より明晰であることによって、腕力があることによって、アルコールを過剰摂取することによって、女を支配することによって、何事にも怯えない態度によって、金銭力によって、キャリアによって……etc) その証明は、24時間365日なされなければ、男は社会(主に男が支配する) に認められない。

男が男らしさの型に、女が女らしさの型にはめ込まれる社会が性差別社会であり、そこに埋め込まれた核がミソジニーである。このミソジニーからは男性も女性も被害を被るが、主に被害者となるのは女性である。

2 性差別は女の自治権を許容しない/女を客体化する

性差別が蔓延した社会ではレイプカルチャー
があり、女の客体化がある。客体化というのはある人間から主権を剥奪し、モノ化することだ。この’モノ’を使うのが、主体、すなわち男性である。

-客体化の問題

客体化の何が悪いのか?まず、モノの意思は尊重されない。なぜなら物体であり人間ではないからだ。モノは代替可能であり、使い手の意向に合わせて形成される。モノは傷つけてもいい。人がモノに貶められたとき、貶められた人間は残虐に扱われる。人間ではないから。客体化がより残酷な様相を呈したかたちが人身売買、強制売春であり、日本はアジアで第一の人身売買大国(e)である。

私たちが日常的に触れる女のモノ化は、性的に強調された尻、胸、など女の体、ビキニ姿のCMモデル、果汁グミと一体化した石原さとみ氏(女は食べられるべき、消費されるべきものという暗喩、女のモノ化。他に’とちおとめ’ と名付けられたイチゴ、秋田小町という米など) などがある。胸フェチや脚フェチなどのフェティッシュも、個人の個人性を無視しその人の人間的価値を身体のある部位に収斂させるという行為によって相手を非人間化する。(この行為は男性に対して行われた場合にも有害であると言っておくべきだろう。彼らに対して行使される頻度は女性を対象とするものの十分の一くらいなわけであるが)

客体化の核は、主体性と個別性の否定であり、これが起きたときヒトはモノ化され、代替可能なものとして搾取される。

性差別的社会では、女が自分の身体をコントロールすることは許されない
-ダブルスタンダード

私たちはしばしば男性とことなる基準を満たすよう求められ、それはしばしば不公平な要求である。そして基準を満たさなければ責められる。私たちを糾弾する慣用表現の例はたくさんある。

例えば、セックスを楽しむ女は’はしたない/淫乱/ビッチ’ 交際人数が多い男は’男らしい’

リーダーシップをとる男は男らしい、同じことをする女はじゃじゃ馬、性的な話題を話す女ははしたない、欲求不満、男は「男ってそんなもの」、旦那を支配する女は悪妻/カカア天下、妻を支配する男は亭主関白、などと呼ばれる。

更にこのダブルスタンダードは公共の場にも持ち込まれる。(なぜならミソジニーが浸透した社会では、女性は男性とは異なる’基準’ を満たすことを暗黙のうちに求められるからだ)

外出するとき、女は普通身だしなみを整え、男の、ひいては男社会の鑑賞にたえうるすがたになることを要求される。つまり髪を整え、眉毛を抜いて描き、ファンデーションでしみを隠し、紅を引き、頬紅を差し、手足とワキの毛を剃り、適度に性的で適度に清楚な女性らしい服装であることを常に求められる。常に従属的な態度でいることも’女らしさ’ のひとつ。つまりあまり大声で話さず、男性に道を譲り、男性をまじまじと見たりせず( なぜなら鑑賞するのは男の側であるべきだからだ) 申し訳なさそうに俯きがちに歩くこと。公共交通機関で脚を広げないこと( 男のそれは許容される。英語圏では過度に開脚して座る男のことをManspreading (e)といったりする) 、堂々と立たないこと。これらの女性だけに適用される基準を満たさなければ、女を捨てている、おばさんっぽい、男っぽい、こじらせ女子、女らしくない、などと糾弾される。あたかも女性の人間的価値は、女らしさを満たすことによって充填されるかのようだ。生物学的に女の特徴を持ったが最後、その人間の価値は従属性と美しさにのみ帰するようだ。しかし、その過程で行っていることは女性の非人間化であり道具化である。

パート2につづく……

(E)=(英語)

男性特権とストリートハラスメント

久しぶりに公共の場でのハラスメントの標的となり、イライラしたので書くことにした。ストリート・ハラスメントとは、主に男性から女性への公共の場における言語やボディランゲージなどを用いた、性別に基づく嫌がらせのことだ。日本ではあまり認知されていないようだが、アメリカでは挑発的な格好をした魅力的な女性がニューヨークのダウンタウンを歩く間どのくらいハラスメントを受けるかということを実験したビデオなどが公開されて話題を呼んでいる。彼ら男たちがかける言葉は、挨拶や賞賛が多いが、言葉通りに彼らの意図を解釈してはいけない。見知らぬ人間同士というコンテクストにおいて、そういった言葉をかけるのは嫌がらせである。彼らは相手が、文化的に抑圧されている女性だからこそ気軽に嫌がらせをする。なぜなら、それに対する罰がないことを知っているからだ。 道で、病院で、学校で、職場で、駅で、レストランで、スーパーで、うさばらしのために女性に声をかけたり舌打ちしたり悪態をついたりして嫌がらせをできるのは、男性が社会において特権を持っているからだ。女性は同じ仕事をして男性の60-70%の賃金しかもらえず、常に容姿で、年齢で、家事能力でジャッジされる。従属的でない女は”女らしくない”と非難される。女性は、”女らしいか””女らしくないか”の一点において裁かれ、”女らしくない”女性は価値が低いとみなされる。フェミニストなどは”従属的でない女性”の筆頭であり、彼らに特権が奪われることが嫌な男性たちは彼女らを怪物扱いする。

フェミニストは男性差別主義者である、などと言うひとがいるが、それは間違いである。フェミニズムは女性優位主義ではなく、平等を目指している。国会の議席や、大臣のポスト、会社社長、大学教授など、社会に大きな影響を与えるポストに占める女性の割合を全体の半分にするとか、性犯罪を撲滅するとか、賃金のギャップを埋めるとかいったことが、女性優位主義を示すとはいえない。それは平等主義である。女性は人間であり、男性と完全に同じ人間的価値がある、という思想をもつのがフェミニストである。男性は女性より劣っているという思想ではない。

半世紀前まで、日本の女性は人間ですらなかった。彼女らは家庭に押し込められ、政治への参加を拒否され、dvという概念すら知らず、レイプされれば泣き寝入りするしかなかった。それどころか、家族など近しい人間に受けた罪を責められた。彼女らの体は彼女らのものではなく、男のものだった。彼女らは法律上、未婚のうちは父親の、結婚すれば夫の財産/所有物として扱われたため、強姦罪は、被害者の尊厳に対する罪ではなく、財産を傷つけた罪として規程され、刑罰は軽かった。そしてその法律は、今なお現存している。

当たり前のことだが、女性の体は女性のものだ。ひとが好き勝手に触ったり傷つけたりしていいものではなく、どのような体型・顔かたちも尊重されるべきである。美醜は女性の価値を規定しない。女性は美しくなければならないというひとの頭のほうが醜い。骨格ひとつ、脂肪の厚さひとつで女性の価値を規程するなど誰にもできないのである。

太っているのは悪いことか?chapter2:低体重の危険性 2

このように、スリムであることは賞賛されるかもしれないがその裏側にはこのように体にダメージを与え、ときにそれは不可逆的である暗い面があることを忘れてはならない。
テレビや雑誌などに登場する、魅力的とされる女性たちはほとんどが驚くほど痩せている。例えば、韓国のガールズグループ少女時代はスタイルの良さで韓国、日本、そして他のアジアの国々に絶大な人気を誇るが、ティファニーさんを除くメンバー全員がwhoが定義する低体重だという。彼らが実際過度の食事制限や過度の運動やその他の減量手段によってその数値になったのか、あるいは元来痩せている「痩せの大食い」(私の父親の家系がこれで彼は中年になってもお腹が出ないばかりか誰より食べるーー大学生の息子より食べるーーにもかかわらずたまに会うと心配になるほど痩せている) なのかはわからない。私はそういうひとびとがいることを否定しないし、少女時代のメンバーの代謝がいかほどかというデータもないので彼女らが元来痩せている体質であることを否定することはできない。しかし、仮に彼女らが適切な食事量を摂取していたとしても彼女らをアイドルとして売り込むことには問題がある。

彼女らには男性だけでなく女性ファンも多くついている。それは、彼女らが社会における女性の理想形を体現しているからだ。細く、顔かたちが整っており、色白で、従属的で初心。これが(男性が支配する)社会が女性に求める最低限のものだ。これを女性ファンは内面化(ある価値観を受け入れ自分のものとすること)する。細くあらねばならないという圧力が特に女性に強く働くのは、この男性優位社会における女性の評価基準が容姿であるからだ。
私たちは何においてもまず第一に見た目によって、性差別的な男性及び彼らの価値観を内面化した女性たちーーつまり社会の成員のほとんどーーからジャッジされる。私たちがどのくらい思慮深いか、脳みそが詰まっているか、経験豊富であるか、キャリアがあるか、努力家であるか、思いやりに満ちているか、そんなことは問題ではない。美しくなければ脳みその中身など意味がない。また、美しく脳みそがあっても自己主張するような女はダメだ。
私たちに求められる理想像はいわば人形と使用人のあいのこのようなものだ。男性に異議申し立てをせず、美しく、若い従属的な女ーーアイドルというのはそれを体現した存在だ。
同じアイドルでも男性アイドルのほうに男性のファンはほとんどいない。それは社会の支配階級である男性はおおむね性的主体であり(主体: 自分の意思で行為を行うもの客体: 行為の対象物ーー女性を性的客体化するということは、性行為は二人で行うものではなく、男性ひとりによって行なわれることも示している。その過程で、女性は目的(快楽を得ること)を遂行するための「物」として扱われる) 異性の目の保養になる必要がないからだ。(ゲイやトランスジェンダーの場合男性が客体となりうる) 彼らは一個の意思ある人間として認められているから、外見よりもむしろ何を成し遂げたかによって社会から評価される。しかし私たちは皮膚から上の部分によってのみ評価され、従属的でなければ罰される。
このような社会的背景のもとで激細アイドルが紹介され、それが”美”と定義されたとき、抑圧された女性たちの一部は彼女らを目指すようになる。そして、低い自己評価、摂食障害、その他精神疾患に落ち込んでゆく。

実際少女時代のみなさんは痛々しい。特にユナさんなどはガリガリに痩せて倒れないか心配になるほどだ。あそこまで痩せていると頭のほうもはっきりしないだろうし生理も恐らくないだろう。将来的に骨粗鬆症になるであろうことは言わずもがなだ。ある写真で見ると、彼女の肋骨はくっきり浮いて手の指は骨ばっていた。
彼女はダンサーでありシンガーであり俳優でありタレントだ。スケジュールはぎちぎちで睡眠も十分に取れていないだろう。(韓国のアイドル会社は一般に社員に不利な契約で彼らを酷使することで有名) そういう過酷な状況でこそしっかり栄養をとらなくてはならないのに彼女にはそれが許されない。どんなに名声と羨望を得ようと満足な食事をとれない彼女をかわいそうに思う。

男性優位社会が女性に投げかけるメッセージは残酷だ。
美しくあれ、若くあれ、従属的であれ、セクシーであれ、しかし奔放すぎるな、性的主権を放棄しろ、性的客体であれ、細くあれ、いや適度な肉付きであれ、豊満なバストを持て、色白であれ、いや健康的な小麦色のほうがいい、努力せよ、でも男より知的であってはいけない、出しゃばるな、いい母親、いい妻、いい娘であれ、性犯罪被害くらい我慢しろ、浮気されても我慢しろ(でも浮気することは許さない)、家庭内暴力は内密に、etc…
そのメッセージの中でも、細くあれという圧力は特に有害でありときに生命に危険を及ぼしうる。若い世代の女性たちのロールモデルとなる存在が栄養失調であってはいけない。それをアイドル産業やメディア関係者がいつか理解する日はくるのだろうか・・・?

太りやすい体は悪いものか? chapter 2:低体重の危険性 1

今時分メタボを批判するひとにはこと欠かないが、低体重の危険性を説くひとはどのくらいいるのだろうか?
痩身至上主義の中で中肉中背ややや太めのひとが自信を保つのは難しい。彼らは健康的な体格でありながら現代社会においては”太っている” と認識され、それはしばしば本人の怠け性やだらしなさを示唆する。
太っているひとがきちんとしていない、というのはステレオタイプな見方である。ひとを、ある特性によってグループ分けしてラベルを貼るのは簡単かもしれないがあまり賢いことではない。太っていても勤勉なひともいるし、痩せていてだらしないひともいる。外見ひとつでひとを見通すことはできない。

太っていることがなぜ社会的スティグマとなるのか。それは、そうすればダイエット産業が儲かるからというのが一因にある。痩せイコール美という認識を大衆に植え付ければ会社は潤う。一昔前の日本、あるいは他の文化では、現在太っているとされる体格は美しいとみなされた。木の枝のようにガリガリであることが”よい”とされているのは現代のこの文化が作り上げた結果であり普遍的なものではない。

ではなぜ「痩せ」賛美が危険で問題なのか?それは実現不可能な理想像に常に晒されることにより目標(低体重)に到達できない自分を責め自己評価を下げ悪い精神状態(ときにうつ病、自傷行為、摂食障害にかかりやすくなる) を誘発するだけでなく、ひとを過度で危険なダイエットに走らせうるからである。(そしてそれは摂食障害と紙一重の位置にある)世界保健機構が低体重と定義づけているのはbmi18.5以下である。これ以下の体重となると身体にさまざまな悪影響を与えやすいといわれ、骨粗鬆症や貧血、不整脈のリスクが増す。心臓に負担がかかりやすくなるのは、体脂肪があまりに少ない状態だとからだはエネルギーを作れず生きるのに必要な熱が失われていき、それを補うため、筋肉の組織を分解してエネルギーにし始めるからである。つまり筋肉を壊して体温を保ったり、動いたり思考したりするためのエネルギーとするので(ちなみに脳は普段グルコースをエネルギー源としているが、それがなければタンパク質ーーつまり筋肉ーーを分解して得られるアミノ酸をガソリンにすることができる) 筋組織は痩せ衰え、機能しにくくなる。手や足の筋肉が多少減ったところでただちに生命に危険を及ぼすことはないが、心筋が弱ると不整脈を起こしやすくなり、時にそれは致死的となる。拒食症患者の致死率が精神疾患の中で最も高い一因にこの心臓の衰弱とそれに伴う発作があげられる。

過度の食事制限は上記のような状態を引き起こすだけでなく、免疫力を下げ感染症にかかりやすくする。また、病的なダイエットは過食、下剤の多用、嘔吐、代償行動としての運動を伴うことがある。これは摂食障害の領域であり、程度が酷いと電解質異常(電解質というのはカリウムやナトリウムなどのこと。人間の体液の電解質濃度はかなり厳格に調整されており、バランスが崩れると意識障害や不整脈を引き起こし、時には死に至ることもある。この電解質のバランスを体液と近くし吸収されやすくしたのがスポーツ飲料やos1などである) や虫歯を引き起こしたり、下剤がないと排便できなくなったりする。まだあまりこの分野に関しては研究が進んでおらず裏付けデータはないが、過食嘔吐症が胃不全麻痺の発症に関与している可能性についての指摘もある。(胃不全麻痺は胃が食べ物を小腸に送れなくなる病気。症状が酷いと食べても吐いてしまいものをたべられなくなる。難病で、亡くなることもある)

ミシガン大学の生徒の性的不正に対するポリシーから学ぶ性的行為への「同意」の定義

米国ミシガン大学のサイトに学生の不正な性行為を諌めるためのポリシーがあり、興味深かったので抜粋して翻訳する。ボディタッチ、セックスなどさまざまのレベルの性的接触を含む性行為に、合意が必要だという大前提がまずある。なぜかというと、それは自分の体を一時他人に明け渡すということであり、自分の領域に他人を入れるからだ。しかしながらこの「合意:consent」の定義は日本においては曖昧な印象があり(

お茶を濁すというか、白黒はっきりしないことを美徳とする民族性の影響もあるのかな?はっきりノ―ということが、性行為に限らず難しい文化ということも関係しているのかな?)、比較的定義付けをしっかりしているアメリカを見習うことは、性的に搾取されやすい女性や子供、しょうがい者、性的少数者のみならず、少ないが確実に存在する性犯罪の男性被害者(アメリカでは10%は男性といわれる。加害者の99%は男性であるというデータもある→University of California Santa Cruzの女性学の教授Bettina Aptheker氏の2009年に行われたレクチャー第十二回、Politics of Rape(レイプのポリティクス)において言及されている。PodcastでUC santa cruzを検索で聴けます)にとって、そして社会の構成員全体にとってよりよい共同体形成のための第一歩となる気がする。

露出の高い服を着て夜道をひとりで歩いていたら性犯罪を誘起しているのだろうか?違う。愛想を振りまく人はセックスを誘っていると推測していいのだろうか、違う。恋人同士なら、あるいは夫婦なら、相手の都合に構わずセックスを強要してよいのだろうか?違う。結婚は性行為の同意を前提とするのか?もちろん違う。誰だってしたくないときはあるし、疲れているときもあるし、ひとりになりたいときもある。それは相手を嫌っていることを意味しない。好意があれば何をしてもいいというものではない。すべての人間は自分の体をいつどこでどのように使うか、に対しての主権があり、それは夫や、恋人に帰属するものではない、とミシガン大の性犯罪防止センターは言っている。

 

At the heart of consent is the idea that every person has a right to personal sovereignty – not to be acted upon by someone else in a sexual manner unless they give clear permission to do so.  It is the responsibility of the person initiating the sexual activity to get this permission.  Absence of clear permission means you can’t touch someone, not that you can.

Sexual assault prevention and awareness center, consent and coercion, University of michigan student life

 

合意についての核となる考え方は「全ての人間は個人的主権をもっている」というものだ。つまり、明確な承認なしに他人に性的行為をされない権利である。性行為の行為者は相手からこの承認を得る義務がある。相手の、性行為に対する明確な承認の欠如(あいまいな態度)は、承認を意味せず、拒否と考えるべきである。

 

 

合意と脅迫の線引きを明確にすることで、ひとの主権を保護することが容易になる。同意というのは、服装や態度によって得られるものではなく、一度関係があったり付き合っていたり婚姻関係にあるという事実のみで得られるものでもなく、明確な承認なしに推測されるものでもない。加害者のアルコールの摂取による強制的な性行為も許容されない。(ミシガン州の法律においては加害者のアルコールの摂取の有無にかかわらず加害者は同様に裁かれる)沈黙は同意を意味しない。(それは拒絶と推測されるべきで、性行為の行為者は相手から明確な承認を得る必要があり、それがない場合は強制的な性行為である)

また、二者の間に権力の差がある場合は(雇用主と従業員、教師と生徒など)2人のセクシュアルな関係にこの権力構造が影響を及ぼしていないとは考えにくい。

ミシガン大スチューデントセンターのsexual assault prevention and awareness centerは最後にこう締めくくっている。

 

When coercion is used to convince a person to have sex or engage in sexual activities when they not want to do so, this is sexual assault, as defined by Michigan law.

Some examples of coercion are saying things like “If you loved me, you would”, threatening self-harm, or making someone feel as though they owe someone sex for buying them dinner, giving them gifts, etc.

 

このような脅迫が相手の意に反する性行為への説得に使われるばあい、これはミシガン州法によってsexual assault(レイプ・強制わいせつ)と定められている。脅迫は、例えば「愛しているならセックスしてくれるはずだ」と言ったり、自傷行為をほのめかしたり、食事代の支払いやプレゼントと引き換えにセックスしなければならないかのように相手に感じさせたりすることで行われる。

 

(感想)

 

ある犯罪が、犯罪被害者の落ち度によることはない。TEDxTalksで誰か女性権利擁護者が言っていたが、性犯罪は女性問題ではない。性犯罪で犯罪におよぶのはほとんどが男性であり、問題となるのは男性だからだ。また、被害者のおよそ10%は男性の加害による男性の被害者だ。(つまり被害者が女性に限らない)

端的にいうと性犯罪は男性問題である。だから女性の服装とか一人歩きとか言動(あなたが彼を刺激するようなことを言ったんじゃないの?)に焦点をあてるのではなく、男性がなぜこれほどまで加害におよぶのかを研究した方が解決が早いし筋道だっている。

「性犯罪は男性問題」という認識と、「セックスの合意をとるのは、行為者側の責任」というコンセンサス、どこまでが合意でどこからが脅迫を用いた性行為なのかを、二者の間の権力構造を理解すると共に意識していくことが重要であろうと思う。