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日本人男性の自殺率が女性のそれより高いのだから男女差別は存在しない(あるいはあっても微小なもの)という言説について

男性の自殺率が女性のそれより高いのだから男女差別は存在しない(あるいはあっても微小なもの) という言説について

性差別を語るときに、性差別があることを受け入れられない、受け入れたくない人々(主に既得権益を失いたくない男性) はしばしば日本人男性の自殺率は女性より高いのだから性差別などない、という論理を展開しがちである。男女間の賃金格差、/男性が女性の数倍いる国会、内閣、省庁、市議会、町議会、裁判所、/少ない女性医師、女性技師、女性大学教授……など女性に影響力を持たせることを許さぬ日本社会/女性に偏って求められる結婚後の苗字変更、女性のみ離婚後一定期間再婚を禁じる(憲法の両性平等に違反すると思われる) 法律の現存、シングルマザー家庭の深刻な生活苦、看過される性犯罪、日常のあらゆる場面での嫌がらせやストリートハラスメント……これらの差別が自殺率がより高いという一点のみによって無化されるとは到底思えないが、この言説の問題点は量的なものだけではない。

1. ひとはある特権を持つと同時に抑圧され得る
特権を持っていることは、差別されていないことを必ずしも意味しない。例えば、白人の女性は、女性として抑圧されるのと同時に白人としての特権を持つ。ゲイの男性は男性として特権を持つのと同時に性的指向に基づく差別を受ける。このように、誰しもが特権を持ちつつある分野においては差別される。完全な抑圧者、被抑圧者はほとんどいないだろうと思う。誰もがマジョリティーに属しつつマイノリティーにも属しているということだ。

女性は”強くなくともよい” という有利な点を持つ。(男性が困難や悲しい喪失に直面しても嘆き悲しんではいけないのとは対照的に) 弱さを表現できる、存分に泣き、友人や家族や恋人に助けを求めることができるというのは健康的な人間のあり方である。誰にでもどうしようもないときはある。それを”女々しい”などと言って男性に禁じることは男性の精神的健全さを阻害する可能性がある。これは男性に不利な点であることは間違いがない。

しかし、たとえ”弱さを露呈できる”というある種の特権を女性が有していたとしても、別の側面では差別されていることにはかわりなく、自殺率が男性より低いことが他のもろもろの差別を無化することはないと考える。

2. 男性差別を作ったのは男性

男性差別があるとして、その責任を女性に負わせるのはお門違いだろう。なぜなら日本においては少なくとも過去2,3世紀女性の発言権はなく、現存する日本社会を作ってきたのは男性だからである。彼らがこういう言説を作り上げるのは、自分の祖先の犯した間違いをフェミニストになすりつけることで自らの特権も忘れて被害者ぶることができるからだ。特権階級はしばしば自分たちの責任をスケープゴートに転嫁する。そのスケープゴートとなるのは、社会で抑圧された者、すなわち女性、LGBTQIA,トランスジェンダー、障がい者、有色人種、などである。
男性に男らしさの証明を要求する社会、男が強くなければならない社会を作り上げたのは男性だった。(ジェンダー問題などを取り上げるBroad blogsでは、Men Commit Suicide Because of Feminism? で、 アメリカにおいては、もっとも特権をもった白人男性の自殺率がほかの人種の男性に比して高いことから、高い期待が高い自殺率を呼ぶ、と結論づけている。)

だから男らしさを押し付けられる、男性差別に抗議しようとして、まさにその”らしさ” ”ジェンダーロール”の解体を目指すフェミニストに文句を垂れるのは向かう対象を間違えている。

男性が男性差別をなくしたければ、権力者、すなわち男性に向かっていくしかないのである。