月別アーカイブ: 2015年5月

明治期から昭和の女性の人身売買を描いた傑作「親なるもの 断崖」part3

*ネタバレがあります

*(e)=(English)

4,ミソジニー社会が生み出したミソジニックな広告の仕方

ここでいよいよ本題に入る。

作品の内容はひとまず置いておく。作者がフェミニズムを理解していることは疑いがない。

問題なのは広告の仕方である。あの広告を見て作品を読む気になる女性がどれだけいるだろうか?数百ページにわたる物語の中で、広告の’ 醜女’ 道子は端役的存在である。

彼女は遊郭に売られた四人のうち唯一売春を望んだ存在であるが、物語の舞台である幕西遊郭より下級の女郎部屋に安く下げ渡されたのち患っていた病気により死亡する。道子の運命は悲劇的ではあるが、作品の主題はむしろ幕西でトップに上り詰めた娼婦お梅の、女であるがゆえに苦しみ抜いた人生にある。

股を腫らし1日10人以上の相手をしても、その人数は少なく記帳され、借金は一向に減らない。性病予防も避妊もなされない劣悪な環境で同僚は梅毒で、あるいは危険な中絶を行なったせいで死んでゆく。(吉原遊郭でも梅毒は顕著(e)であったようだ。)

客からの暴力で気が触れた同僚がわめき散らし、セックスの知識のないまま客をとらされた女はその翌日に首を吊る。( 性行為のやり方を教えられていない女性は通常高値で売れるため<水揚げ>)

逃げられないよう外出は制限され、広い空を仰ぐことも滅多にできない。

性奴隷同然で鎖に繋がれ、人権を剥奪されて虐げられる日々はまさに生き地獄。女が男を恨み、社会を恨み、その復讐のために娘を産んで次の世を託すというのが物語の本筋である。人間ではなく、快楽のための道具として社会のすべての構成員から虐待された性奴隷たちの中で道子は一種異質な存在である。誰も人間未満になりたくはない。ひとから’ 牛馬にも劣る存在’ などと言われたくはない。しかし道子はそれを望んだのである。

「性奴隷になってまで男を(どんな醜い、貧しい、老齢の男であろうとも) 求める女」という存在はしかし、現代の社会でも男に歓迎される。それは、そういう女の存在が男にとって都合よく、男を安心させるからだ。ミソジニー社会においては、性の自治権のない女、すなわちいつでもだれでも手に入る女は歓迎される。( そして女性がピルなどでおのれのセクシュアリティをコントロールしようとするやいなや社会は彼女らを糾弾し罰する)

道子はそういう自己評価が低い女であり、貞淑ではないことを責められる一方、賞賛される対象である。だからこそ、広告の担当者は意識的にせよ無意識的にせよ道子のシーンを抜粋したのだ。( 補足しておくと道子はただ性的快楽の追求のためだけに娼婦になったのではない。遊郭を逃げ出したお梅に連れられて行った地球岬で臨終間際に”おらァもう男とれね……おらァ…いっぺえ男とっていっぺえ金かせいでいなかの父ちゃんや母ちゃんに腹いっぺえごはん食べさしてやりたかったなァ” と売春の動機を語っている。<1巻p309>)

個人的には、作者はこの抜粋の仕方をあまり好まなかったであろうと推測する。もし私がウェブの広告のためにどこかのページを抜粋するとしたら、売られてすぐに知識のないまま客をとらされ首を吊った松恵のシーン(1巻43-46p) が適当のように思う。

-セックスワーカーも職業人

もう少し広告の表現を細かく見ていくと、職業蔑視の表現も気になる。(実際には仕事というより奴隷労働なのだが……)

「女郎に下る」という言い方はあたかも性産業に属するひとが、そうでないひとより人間として劣るかのようである。実際は職業は職業であり、他の社会人と同じように性的サービスを売ることによって日々の糧を得ている。職業に上も下もない。元セックスワーカーでセックスワーカー情報センターの創設者のMariska majoor氏は、売春はプロフェッショナル(e)な仕事でありお金を得る手段であると言い切っている。

(売春の自発性についての討論にて。この問題は別にまた論じたい)

-外見差別

“醜女” という表現はもちろん女性の価値が外見的要因によってのみきまるということを示唆する点で性差別的だ。しかし同時に、絶対的、普遍的美しさは存在するのかを私に考えさせる。

醜い人間は、美しい人間より人間的価値がないのであろうか。そもそも美しさは客観的に評価できる類いのものだろうか?科学的に裏付けのとれる’美’ の条件が何であるかはまだ解明されていないようだ。( ‘健康’ と美しさがリンクしているらしいことは分かってきているようだ—ひとがどんな顔を魅力的だと思うかについての研究で、ひとは対称的で平均的な顔をより魅力的だと感じる傾向があるということが判明したらしい。そして顔の対称性は健康状態とリンクしているという研究(e)もあるーーー)

どんな顔をもってして魅力的というかは、本能の他に文化的文脈も絡んでいることを忘れてはいけない。私たちはなぜ一重よりも二重まぶたを好むのだろうか?韓国のセクシュアリティやフェミニズムについてのブログThe Grand Narrativeによれば、それは社会が西欧化された(e)せいだという。

近代は西欧支配の時代だった。アジアで、アフリカで、西欧諸国の影響を受けなかった国はほとんどない。日本も例外ではない。開国に伴って生活様式も価値観も西欧の影響を受けた。私たちは着物を着なくなり、時計に従って行動するようになった。

西欧化の中で美は、より西欧人、白人の特徴を持つこととなり、くっきりした二重まぶた、大きな目は賞賛されるようになった。

この例からも見られるように、今日の” 美しさ” の定義は、絶対的、普遍的なものではなく流動的なものである。ある時代に魅力的とされた特徴は、別の時代ではそうではない。

5, 人身売買はまだ終わっていない

米国国務省の2011年の人身売買報告書(e)

などによれば、日本は先進国のなかでも特に深刻な人身売買の問題を抱えており、主に東アジア、東南アジア出身の女性と子供がその被害を被っているという。(詳細は以下参照)

Japan is recognized as having one of the most severe human trafficking problems among the major industrialized democracies.4 Japan is a destination country for women and children from East Asia, Southeast Asia, and to a lesser extent, Eastern Europe, Russia, and Latin America who are subjected to sexual and labor exploitation.5 Recruitment techniques are often based on false promises of employment as waitresses, hotel staff, entertainers, or models.6 Traffickers also use fraudulent marriages between foreign women and Japanese men to facilitate entry of victims into Japan for forced prostitution.7 
Human trafficking.org

日本は先進国のなかでも特に程度が高い人身売買の問題を抱えていると認識される。日本は主に東アジア、東南アジアの女性と子供が売られていく場所であり、また彼らより割合は低いが、東ヨーロッパ、ロシア、ラテンアメリカの人びとも含まれる。彼女らは性的搾取や強制労働の対象とされる。彼らを勧誘する手法には、よくウエイトレスやホテルの従業員、芸能人、モデルとしての仕事を約束して騙すという方法が使われる。人身売買を行う者たちはまた被害者を日本人男性と不正に結婚させて入国させ、強制売春に従事させる。(筆者訳)

悲惨な人身売買は決して過去のものではない。私たちはその被害を減らすためにこれから努力していかなければならないだろう。

明治期から昭和の女性の人身売買を描いた傑作「親なるもの  断崖」part2

つづき……

*(E)=(English)

-妊娠強要

望まない妊娠はどの女性にとっても恐怖だ。それはキャリアの中断を意味したり、身体に負担のかかる中絶を意味するだけでなく、精神的に大きな苦痛を伴うからだ。それを防ぐためには避妊が必要である。避妊にはさまざまな種類があるが、経口避妊薬、低用量ピルはかなり避妊効果が高いことで定評がある。

日本では医師の処方なしでは手に入らない上、保険がきかないが、

多くの国々(e)では薬局で市販されている。
また,避妊に失敗したときの緊急用経口避妊薬、モーニングアフターピルは、日本では高額であり保険がきかず、(緊急時なのに) 医師の処方が必要だが、(source 2)
(この現状を憂えて、ピルとの付き合い方、というサイト の管理人のruriko さんは、緊急経口避妊薬の市販化キャンペーンを行っている )

アメリカでは2013年から薬局で市販(e)されるようになり、
イギリスでは16歳以上であれば市販のものを処方箋なしで買う(e)ことができる。
しかし日本のような避妊後進国(e)が生み出すのは、中絶ビジネスで儲ける医者と、彼らに搾取され身体的経済的に負担を強いられる不幸な女性だ。
特に妊娠12週以降の中期中絶は身体への負担が大きくなり、将来不妊になるリスクもある。
ピルの認可にこれほど厳しい態度の政府は、既得権益を守りたい産科医との癒着による堕落と共に、女性の身体をコントロールしたい、女性に避妊手段を持たせたくないという意図をも想起させる。アメリカで、中絶を行うクリニックが嫌がらせ、誹謗中傷を受けたりするのと、日本で経口避妊ピルが広く認可されていないのは同じコインの裏表だ。男が女の妊娠出産をコントロールしたいということである。

卑近な例は、夫、または男性のパートナー(恋人) が相手の女性に妊娠を強要することである。

RH Reality Check でのMartha kempner の報告(e)によれば、

レイピストのRoman Polanskiは、次のように語っている。
” I think that the Pill has changed greatly the woman of our times, ‘masculinizing’ her,” (私はピルが現状の女性を大きく変えたとおもう。ピルは女性を男性化させたーー筆者訳) 

彼は自分の身体をコントロールするのは男性だけの特権であると信じ切った様子で語る。

“I think that it chases away the romance from our lives and that’s a great pity.”

( そしてピルの出現は私たちの人世からロマンスを奪った。とても哀しいことだ。)
ここで注意しなければならないのは、この犯罪者のいう”ロマンス” とは、女性を、男性の気まぐれで妊娠させられるという恐怖の状態におくことだ。女性にとって、そしてマトモな男性にとっても、これはロマンスでもなんでもない。

このような歪んだ思考は、レイピストなど犯罪者特有のものなのであろうか?残念ながら調査結果は反対を示している。

Kat Stoeffelの報告(e)によれば、 ロードアイランドの州立産婦人科医院の医師Lindsay Clark によって行われた研究において、調査をうけた女性641人のうち、16%ものひとがパートナー又は夫から妊娠するよう脅迫を受けたり、妊娠させるためピルを隠されたり、故意にコンドームに穴を空けたりされたことがあると答えたという。
男性はなぜこのような行動をするのだろうか?それは、女性を完全に自分の支配下におき、優越感に浸り、高揚した気分になるためだとRH Reality CheckのAmanda Marcotteはいう。(e)

加虐的な男は妊娠強要によって究極的に女性を自分に縛り付け、支配しようとする。男性は女性の所有者でさえある社会で、妊娠強要は珍しくないのである。

3,性犯罪は女の責任

性差別的社会では、シスジェンダーの男から女への性犯罪は軽く見積もられる。なぜなら’女のからだは男のもの’ という前提のもとに社会が成り立っているからだ。ありていにいえば、女はいつなんどきでも男の性的快楽を充足させるためにスタンバってるべきだ、という考え方だ。だから女が性的嫌がらせを受けたと騒ぐと、社会は、お前の着ていた服が悪い、出歩いていた時間が悪い、お前は繊細すぎる、そういうことを言うべきではなかった、などとおためごかしを言って問題の核心をつくことを忌避する。矛先を女性に向け個人攻撃をする。しかし社会がそういう行動をとることそのものが性差別が存在していることを実証している。問題の核心をずらそうとするのは、自分の言い分に裏付けがないことを自覚しているからだ。もし問題について話し合いを持ちたいという意思があれば、問題点を指摘されて、個人攻撃をしたりはしない。

ある特定の特徴をもつグループを、ある枠組みの中に入れて非人間化し、その責任を彼らになすりつけることは、古今東西行なわれてきたことであり、それが差別である。

明治期から昭和にかけての女性の人身売買を描いた傑作、「親なるもの 断崖」part1

一見ミソジニーに満ちた広告のされ方をした、その実傑作な漫画’ 親なるもの 断崖(曽根富美子作)

はじめにこの作品の広告をインターネットで目にしたのはひと月ほど前だった。それがこの画像である。

   
 
短絡的で直情型の私は、この広告が出てくるたびにイライラとしていた。売春をしてでも男とセックスをしたい女への嘲弄、外見主義がその宣伝文句から透けて見えたからだ。はじめは読む気などしなかったが、記事を書くにあたりどのくらいミソジニックなのか調査する必要があったので、まんが王国で購入して読んだ。

そしてそれが、明治末期から第二次世界大戦の終戦頃まで実在した、北海道室蘭市にある幕西遊郭に売られた東北地方の貧農の娘たちを、彼女らの視点から描いた傑作であることを知った。どの程度史実に基づいているかは分からないが、曽根氏はかなりの文献を読み込んだようだ。作品は女性の目線で描かれ、奴隷同然で働かされ、身も心もズタボロになるセックスワーカーたちが直面した悲惨な現実をあますところなく描いている。

しかし本題に入る前に、ミソジニーという用語の解説と、それがどのように性差別社会を導くのかをまず述べたい。

1:ミソジニー/女性嫌悪 とはなにか
ミソジニーというのは、女性性を劣ったものとみなし、嫌悪し、排外することである。この社会に生きる者でミソジニーから逃れられる者はいない、と喝破したフェミニストの上野千鶴子氏は著書’女ぎらいーーニッポンのミソジニー’の中でミソジニーを、’自分を性的に男だと証明しなければならないそのたびに、女というおぞましい、汚らわしい、理解を超えた生きものにその欲望の充足を依存せざるをえないことに対する、男の怨嗟と怒り’ と定義付けている。

  
この、’男であることの証明’という概念は正しくて、男は男らしさをうまれながらにして持つのではなく、’常に証明し続けなければならない'(マッチョな体を持つことによって、危険を顧みない行為ーースタント、F1ドライバー、無茶な運転ーーによって、女性より明晰であることによって、腕力があることによって、アルコールを過剰摂取することによって、女を支配することによって、何事にも怯えない態度によって、金銭力によって、キャリアによって……etc) その証明は、24時間365日なされなければ、男は社会(主に男が支配する) に認められない。

男が男らしさの型に、女が女らしさの型にはめ込まれる社会が性差別社会であり、そこに埋め込まれた核がミソジニーである。このミソジニーからは男性も女性も被害を被るが、主に被害者となるのは女性である。

2 性差別は女の自治権を許容しない/女を客体化する

性差別が蔓延した社会ではレイプカルチャー
があり、女の客体化がある。客体化というのはある人間から主権を剥奪し、モノ化することだ。この’モノ’を使うのが、主体、すなわち男性である。

-客体化の問題

客体化の何が悪いのか?まず、モノの意思は尊重されない。なぜなら物体であり人間ではないからだ。モノは代替可能であり、使い手の意向に合わせて形成される。モノは傷つけてもいい。人がモノに貶められたとき、貶められた人間は残虐に扱われる。人間ではないから。客体化がより残酷な様相を呈したかたちが人身売買、強制売春であり、日本はアジアで第一の人身売買大国(e)である。

私たちが日常的に触れる女のモノ化は、性的に強調された尻、胸、など女の体、ビキニ姿のCMモデル、果汁グミと一体化した石原さとみ氏(女は食べられるべき、消費されるべきものという暗喩、女のモノ化。他に’とちおとめ’ と名付けられたイチゴ、秋田小町という米など) などがある。胸フェチや脚フェチなどのフェティッシュも、個人の個人性を無視しその人の人間的価値を身体のある部位に収斂させるという行為によって相手を非人間化する。(この行為は男性に対して行われた場合にも有害であると言っておくべきだろう。彼らに対して行使される頻度は女性を対象とするものの十分の一くらいなわけであるが)

客体化の核は、主体性と個別性の否定であり、これが起きたときヒトはモノ化され、代替可能なものとして搾取される。

性差別的社会では、女が自分の身体をコントロールすることは許されない
-ダブルスタンダード

私たちはしばしば男性とことなる基準を満たすよう求められ、それはしばしば不公平な要求である。そして基準を満たさなければ責められる。私たちを糾弾する慣用表現の例はたくさんある。

例えば、セックスを楽しむ女は’はしたない/淫乱/ビッチ’ 交際人数が多い男は’男らしい’

リーダーシップをとる男は男らしい、同じことをする女はじゃじゃ馬、性的な話題を話す女ははしたない、欲求不満、男は「男ってそんなもの」、旦那を支配する女は悪妻/カカア天下、妻を支配する男は亭主関白、などと呼ばれる。

更にこのダブルスタンダードは公共の場にも持ち込まれる。(なぜならミソジニーが浸透した社会では、女性は男性とは異なる’基準’ を満たすことを暗黙のうちに求められるからだ)

外出するとき、女は普通身だしなみを整え、男の、ひいては男社会の鑑賞にたえうるすがたになることを要求される。つまり髪を整え、眉毛を抜いて描き、ファンデーションでしみを隠し、紅を引き、頬紅を差し、手足とワキの毛を剃り、適度に性的で適度に清楚な女性らしい服装であることを常に求められる。常に従属的な態度でいることも’女らしさ’ のひとつ。つまりあまり大声で話さず、男性に道を譲り、男性をまじまじと見たりせず( なぜなら鑑賞するのは男の側であるべきだからだ) 申し訳なさそうに俯きがちに歩くこと。公共交通機関で脚を広げないこと( 男のそれは許容される。英語圏では過度に開脚して座る男のことをManspreading (e)といったりする) 、堂々と立たないこと。これらの女性だけに適用される基準を満たさなければ、女を捨てている、おばさんっぽい、男っぽい、こじらせ女子、女らしくない、などと糾弾される。あたかも女性の人間的価値は、女らしさを満たすことによって充填されるかのようだ。生物学的に女の特徴を持ったが最後、その人間の価値は従属性と美しさにのみ帰するようだ。しかし、その過程で行っていることは女性の非人間化であり道具化である。

パート2につづく……

(E)=(英語)