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太りやすい体は悪いものか? chapter1:自分の体が嫌いだった頃

幼稚園までは自分の体に悩むことはなかった。人より太っているとか、劣等感をもったことはなかった。しかしほとんど骨と皮のアイドルやモデルが、「理想」とされ、太っていることが(特に女性の場合)非魅力的どころかだらしない、勉強ができない、女らしくない(あたかも「女らしい」女が最も魅力的であるかのように)と、外側だけで中身まで批判されている内容が目白押しのテレビや漫画、雑誌の影響で、10歳頃には既に自分の体を嫌っていた。更に第二次性徴を迎えて脂肪がつき、体が丸みを帯びてくるとそれは顕著になった。それから高校を卒業するまでは、自分は太く、醜く、人間として尊重に値しないと思い込んできた。そして日々ダイエットをしては挫折して虚しさを友人と愚痴りあった。その頃、私の頭の中には、骨と皮だけじゃない(肉がついている)=醜い、という図式があった。

「痩せ」の賞賛のオンパレードのメディアに日々晒されていれば、ひとは、多かれ少なかれ影響を受ける。中学、高校の頃、私は拒食症と過食嘔吐が合わさったような状態で、常にふくらはぎの脂肪を嫌い、ある一定期間絶食してその後衝動食いをする、といったサイクルに落ち込んでいた。そして食べた後は罪悪感でいっぱいになり、発作的に運動をしたり、食事を抜いたりして食べた分を消費しようとしていた。(細かいことをいうと、私は過食嘔吐の状態だったが、一度も吐いたことはない。日本語の定義で過食嘔吐がどの程度まで包括するのか分からないが、日本語の過食嘔吐は英語のbulimiaに相当し、bulimiaは単に食べ吐きを指すわけではなく、多量に食べた後に下剤を使用したり、運動したり、食事を抜いたりして食べてしまった分を「埋め合わせ」る行為を続ける病気を指す。私はここでは、bulimiaと過食嘔吐を同様のものと考えて発言している。)私は、特に健康を害するほど太っていたわけではないが、bmiが18を切るようなモデルやテレビのタレントよりはかなり太っていた。私の人生で一番太っていたときでも標準体重を少し上回るくらいだった。

しかし私はそれでは不満だった。膝の上に肉がついているのが許せなかった。外出時、レストランのガラス窓に映った自分を見ることさえ嫌悪していた。そのくらい、自分へのネガティブな感情に満ちていた私がどうやってそこを脱出したかというと、まずはじめにテレビを一切みなくした。テレビのダイエットのコマーシャルに出てくるafter写真の女性は骨と皮ばかりに痩せていて、before写真では私の体型に近かった。そのようなコマーシャルがどのような考えを流布しているかというと、「今のままではあなたは十分ではない。まだ魅力的ではない。もっともっと痩せる必要がある」ということだ。そういう情報に晒されれば晒されるほど、自分の体に対する嫌悪は高まり(そして応応にして出てくるモデルは実現不可能なプロポーションをしている)、ダイエット食品や関連本を買うことになる。しかし、美容産業はずっと儲けていたいので、大体のダイエット本やダイエット食品は科学的裏付けのない適当なものだ。

なぜダイエット産業はこれほどまでに「痩せ」を賞賛するのか。実現不可能な細さを(主に)女性に求めてくるのか。それは、彼らが儲かるからである。私たちが自分の体に不満を持てば持つほど彼らの利益は大きくなる。これを理解したとき、私は不愉快なメディアとの接触を最低限にすることを決心し実行した。ネットで自分が観たいものを、見たい時にピックアップすることを習慣づけるようになってから、自分が太っていると思わなくなり、自分の体を愛せるようになった。実際、よく見てみればスタイルはいい方だった。ダイエットなんてする必要はない。仮にしたとしても、少女時代のユナちゃんには絶対になれないことは骨格上分かっているから無駄な努力はしない。ない物を羨むよりも、今自分が持っているものをありがたく思うようにすると、今まで自分の体が嫌いだったことが不思議だったほど、自分の体に満足できるようになった。

テレビ、映画、雑誌(特にファッション誌)、ダイエット本、そして時に漫画や小説などの創作物の多くの理想の女性は、「若くて美形でスタイル抜群(ほとんどの人間が実現不可能なほど細い)」である。(そして男を立ててくれる)そのような「鋳型」が西洋文化の訪れと共に日本に絶大な影響を及ぼし始めたことは想像に難くないだろう。「ガリガリ=美しい」という概念は多くの女性を無駄なダイエットに走らせ、彼女たちの時間と金を奪い去る。摂食障害を誘起することもあるし、精神疾患に導くこともある。この中で最も死亡率が高く危険だといわれているのは拒食症や過食嘔吐などの摂食障害である。アメリカの調査では、拒食症患者の五人に一人はその病又は自殺により亡くなることが判明している。つまり拒食症は死亡率20%の疾患で、精神疾患の中で最も死亡率が高い。また、過食嘔吐の患者はよく下剤を使ったり嘔吐したりするが、これは体の電解質のバランスを崩し、低カリウム血症などとなり致命的な不整脈を誘起しうる。

上記にあげたように、低体重を目指すことは健康的ではなく、時に軽いダイエットで始まったつもりが生命を危機に晒すことになる。拒食症とメディアの痩せ信仰の関連性はまだ証明されていないが(テレビを見てダイエットを始めても適切なところでストップできるひともいる)、健康ではなく痩せを目指すことの危険性を次章でとりあげていきたいとおもう。

「見えない障害者」「invisible disability」についての考察――スプーン理論とは何か(認知度の低い慢性病患者のために)

  
長らく「私の斜頚はなぜ診断されないんだ」と騒いできたtinytim。なぜかといえばそれがmpsという慢性疼痛疾患の原因と目されていたからだった。軽度だからと斜頚(筋性)を放置され首のコリ肩の痛みに苦しむひとをたくさんネットでみかけた。私もそのひとりで、とにかく中枢神経の近くにあることも手伝って通常の頭痛どころではない強烈な痛みを十年以上背負ってきた。青春なんてものはなくただ痛みだけがそこにあった。あまりに小さい頃からだったので、そしてmpsは通常の急性の痛みとは違い深くて鈍く時折鋭いという特殊な形態であったこともあって、私はただの頭痛もちと認識していたしされていた。しかしもし私のような状態を経験したら誰でも緊張型頭痛を何とも思わなくなる。足指の捻挫に気付かないくらい痛みに鈍くなる。私は、こういうのはおこがましいかもしれないが、たとえどんな暴力を振るわれようとあの痛みに相当することはないと確信している。おそらくガンの末期の疼痛レベルだと思う。

そういう言語を絶する経験を経てふてぶてしく成長したわけだが、いつまでも親のすねをかじりたくないし、何より痛みへの恐怖にかられて原因さがしをはじめた。トリガーポイントの正確な位置を掴むまでに発症からおよそ10年を要し、発見された後も対症療法的なトリガーポイント治療になってしまい日常生活を送ることはまだできなかった。日常生活というのは、この場合普通に朝起きて、学校に行って、友だちとだべりながらランチして、部活をして、家に帰って宿題をして寝る、を意味する。その日常生活どころか、十分机につくのさえ苦痛だった。こんな私が高校を卒業できるわけもなく(自分の頭脳レベルより低い学校だったらマシだったかもしれないが同等の高校に入ってしまった時点でまずかった)二年の後半から不登校気味になり始め、三年生で本格的な不登校になった。それでも完全な引きこもりというわけでもなく、痛みを散らすために外出していたりもしたから親には不審がられた。

リューマチ、繊維筋痛症、胃不全麻痺、腸麻痺など、認知度が低く、外から見えにくく、慢性的な(痛みを伴う)病気を抱える人を、英語圏ではスプーニーなどと呼ぶ。これは文字の意味そのままで、スプーン子たち、という意味である。スプーン子たちは、スプーン理論に基づいて開発された呼び名である。スプーン理論(spoon theory)というのはいつだかに頭のよい慢性病患者の一人が考え出したものだ。そのひとは普段から自分がもつ病気の辛さを健常なひとに分かってもらうことに苦労していた。そこでスプーン理論を考え出した。

その人はまず健康な友人にスプーンを数本与えて、「これが今日一日の活動分」と宣言した。そして、友人のあらゆる行動――食事をつくる、食事を片付ける、掃除をする、買い出しにいく、シャワーをあびる、学校の宿題をする……etc――のたびに、相当する分のスプーン(例えばシャワーなら一本、食事の準備なら二本というふうに)を奪い去った。そして、スプーンがなくなると友人はもう何もしてはいけないと言った。あらゆる行動にスプーンの数という制限が加えられた友人は最後には取り乱すことになった。そして、最後にその患者――クリスティーンさんはこう言った。「あなたたち健常者はスプーンを無限に持っている。でも私たち慢性病を抱える者は決まった本数のスプーンしかない。その上、今日使いすぎれば明日の分が足りなくなったりする。私たちの日常はこうも制約されているのだ」

その時、彼女の友人は本当に彼女の辛さを理解したという。

外から見えにくい病気を内部疾患といったりもするが、英語圏ではinvisible disabilityとも呼ばれる。「見えない障害者」だ。私たちインビジブルディスアビリティーは公共交通機関で席を譲ってもらうことができないし、優先席に座れば変な顔をされる。体が辛いと訴えれば、精神的なものだと医者からさえ言われる。でも、私たちはここにいる。ここにいて、周りから怠け者とか言われながら、暗闇の中でもがいている。正確な診断まで何人もの医者を回る人もいる。診察でとんちんかんなことを言われて、最後には「精神的なもの」で終わりのことも多々ある。そういう人が少しでも少なくなることを願って、こういう記事を書いたりしている。私のは、軽度の斜頚によって引き起こされた恒久的なトリガーポイントという特殊なケースだが、人はみんな違っているし、人間の体は摩訶不思議で、現代医学で解明できないことは山ほどあるのだから、引け目を感じたりは一切しない。私は今日も堂々とスプーニーを名乗り、堂々と優先席に座りたいと思う。

 

怒りを「使う」ということ――アドラー心理学的負の感情の位置づけ

はじめに:私はアドラー心理学の専門家ではないし、何の資格もありません。ただ、アドラー心理学による子育てを受け、多少それに関する本を読んだただの素人です。これから書くことは参考程度にしてください

 

アルフレッド・アドラーは今から一世紀ほど前、フロイトやユングと同時期に存在した心理学者だ。岸見一朗さん著の「嫌われる勇気」という書籍を読んだ人なら多少聞きおぼえがあるかもしれないが、ほとんどの人はその存在を知らないだろう。フロイト派が文化によく根差したのに対しアドラーの開発した個人心理学が根付かなかった理由のひとつに、アドラーが残した文献の少なさをあげる人もいる。

古代ギリシアの哲学者たちのように、アドラーは書物を残すことによってではなく、人や弟子たちとの直接のやり取りを通してそのノウハウを広めることを好んだ。その結果、今に残るアドラーが書いた本はあまり多くない。

アドラーの個人心理学とフロイト派の決定的な違いは、精神病のとらえ方にある。例えばあるひとが対人恐怖症であるとする。人前に出ると緊張して過呼吸がおきて息ができなくなるという症状を訴える。フロイト派のカウンセラーはこう言うだろう。「前に何か人前に出る事でトラウマティックな経験をしたからそうなるのです。笑われたりとか、辱められたりとか、辛かったのでしょう。原因はそこです」これに対してアドラー博士は、トラウマを一笑に付す。「あなたは人前に出てひとに批評されることが嫌なのです。ひとにバカにされると負けたように感じます。あなたは常に勝ちたい。批評されたくない。耳当たりの良い言葉だけを聞いて人と対峙したくない。だから対人恐怖を”使って”嫌な状況に陥るのを避けているのです。又はやりたくないことをやらなくて済むようにしているのです」

フロイトは患者の症状の原因を過去に求め、アドラーは現在に求める。フロイトは原因論、アドラーは目的論。これが二者の決定的な違いだ。一見アドラーはとてつもなく冷たい人間に見える。個人心理学は人を悪意をもった存在だと感じさせるところがある。しかし現在の症状を過去に求めないことは、治療の上で理にかなっている。なぜなら過去は絶対に変える事ができないからだ。

あなたの病気の原因が何年前のこの出来事にあります、とか、親に虐待されたから今鬱になっているのです、とか言われたところで、過去は変えられない。確かに、大変な経験をすれば精神疾患にかかりやすくなるのは道理だ。lgbtのユースの自殺のリスクがヘテロセクシャルの同年代に比べて高いことや、崩壊した家庭で育った子供がアルコールに手を出しやすくなることは事実でありデータとしてある。しかし同じ経験をして、それを一生引きずる人と、一年で忘れてしまう人がいることを鑑みると、原因論ではこれを説明できない。原因論によれば、たとえば虐待された子供は非行にはしり、アルコールに溺れ、ドラッグに手を出すという同じルートを辿るはずだ。しかし現実にはそうではない。アドラーは百年も前の、オーストリアの医者だから、もちろん現代の日本に住む私たちに当てはまらないことも多々あるだろう。しかし、アドラーの目的論は非常に慧眼であったと思う。

精神疾患に限らず負の感情(主に怒り)も、目的のために行使される。例えば、怒りというのは”衝動”の産物、抑えられないものではない。性犯罪が”本能”の産物ではなく、支配欲求に基づく暴力であるように、怒りも場面や相手によって使い分けられる。例えば、部下に怒りをぶちまける上司が、そのまた上司に向かって”我慢できずに”負の感情を爆発させることはほとんどない。子供に当たり散らしていた母親は、電話口に出た途端丁寧な口調になり、電話が切れるなりまた怒りだす。

つまり人は理性を失って爆発するのではなく、理性に基づいて”いつ””どこで””誰に”怒り、相手を打ち負かして優越感に浸るかを考えてから怒りを行使している。相手を完全に屈従させ、コントロールし、打ち負かし、敗北感を味わわせるために負の感情を使う。そして、このような怒りの爆発の裏には、往往にして強い劣等感や、劣等コンプレックスがある。自分を強く信じているひとは、自分を大きく見せる必要がないが、劣等感があるひとはいつも虚勢をはる。虚勢をはり、自分は強いのだということを証明し、相手を打ち負かし、従えようとする。怒りというのはその過程において行使されることがよくある。

私自身も、相当な我儘で、ちやほやされて育ったので、かなりイラつきやすいほうなのだが、こういった原理をふまえておくと、イラッとしたとき、ああ自分はすべてをコントロールしたいのだな、と自分を省みることができ、冷静になれる。そもそもコントロールできることなどほとんど世の中にはないのだから、自分の思い通りになるように、と思う方がバカなのだが、癖でついつい出てしまったりする。

”怒り”の定義も人それぞれで、”愛があるからこそ怒るんだ”というひともいるかもしれないが、言葉というものがあるのだから、わざわざ負の感情を付け足さなくても言い聞かせれば十分伝わる。それに、怒りというのは一種の快感なので、自己中心的に使ってひとに当たり散らしてしまったりする。私は、”怒り”を使わない親に育てられたので、世間一般的な叱責に最初は戸惑った。叱責の目的はもちろん、相手を教育するためであったり、仕事の納期を守らせることであったりするはずだが、それが効果を出しているだろうか?私にはそうは見えない。逆に相手を委縮させ、2人の関係を悪化させてしまうだけにみえる。それでも怒ることをやめないのは、本人に相手に仕事のやり方を教える気がなく、相手を屈従させて優越感に浸りたいからだ。まあこういうことを面と向かって言うと火に油を注ぐ結果になるのだが……。